セダンの話から

セダンの話である。と言っても自動車の話ではない。むかしセダンという種牡馬がいた。1955年のフランス生まれで、イタリアで走った。伊ダービー、イタリア大賞、ミラノ大賞、共和国大統領賞、ジョッキークラブ大賞等を勝ちまくり、20戦13勝を挙げた名馬である。
ちなみに車のセダンも、もともとラテン語が語源で、イタリアの人が乗る駕籠から来た名詞らしい。
さて、セダンは1000~3000メートルの距離をこなし、スピードとスタミナを兼ね備えた万能系の競走馬で、フェデリコ・テシオが目指した理想の馬のようにも思える。引退後はイタリアで種牡馬となり、リーディングサイヤーにも輝いた。1964年、そのセダンが日本に来た。
セダンの父プリンスビオはフランス産で、11戦6勝。仏2000ギニーを勝った名馬で、フランスのリーディングサイヤーにもなった。プリンスビオの父はイギリス産のプリンスローズで、ベルギーで走り20戦16勝を挙げたベルギー最強馬だった。この馬は1944年、第二次世界大戦のノルマンジー上陸作戦の戦火に巻き込まれて、焼死した。
戦後プリンスローズ産駒はフランスとベルギーでリーディングサイヤーとなって、その血脈を繋ぎ、プリンスキロ、プリンスビオ、プリンスシェバリエとそれぞれの系統を拡げた。父系はセントサイモン系だが、この系統の牡馬はプリンスローズ系と呼ばれる。私のイメージでは、プリンスローズ系は大レースに強い底力血統なのである。

セダンの日本での初産駒は1966年生まれである。ハクエイホーが69年の4歳(現馬齢3歳)クラシック戦線に名乗りを上げ、ダービー3着と好走した。その後、日本短波賞、クモハタ記念を勝った。マツセダンは4歳秋から充実し、七夕賞、福島大賞典を勝ち、古馬となってアルゼンチンJCCを勝った。
1967年生まれのトキノシンオーも4歳夏から力をつけ、古馬となって新潟記念、毎日王冠を制した。
1968年生まれのヤシマライデンはデビューから伊藤正徳騎手が騎乗し、71年の4歳クラシック戦線で有力視された。京成杯、東京4歳Sを勝ったが、1番人気に推された皐月賞は6着に敗れた。ダービーは野平祐二騎手で臨み、3番人気に推されたが13着に惨敗してしまった。勝ったのは後方一気のサラ系ヒカルイマイである。
同じ1968年生まれのトーヨーアサヒはじっくりと成長し続け、4歳秋に京王杯AHを制し、古馬となってからもダイヤモンドS、日本経済賞、ステイヤーズS、アルゼンチンJCCを制した。小柄な馬格で、精確なラップを刻んで逃げ続け、走る精密機械と呼ばれた。
1971年生まれのアイテイシローは京都牝馬特別を勝ったが、オークスは4着だった。同年生まれの牡馬コーネルランサーは、74年の皐月賞を2着と好走し、ダービーを制覇した。しかしレースで脚を痛め、復活することなく、種牡馬となったが、何故か人気がなく、ほどなく韓国に寄贈された。
アイフルも1971年生まれだが、クラシック戦線には縁が無く、2着、3着と好走するもなかなか勝ち上がれなかった。しかし怪我も無くタフで従順な馬に見えた。この馬はゆっくりと、ゆっくりと成長し続けていたのであろう。やがて5歳(現馬齢4歳)秋あたりから勝ち始め、正月の金杯で初重賞勝ち、秋には天皇賞も制した。まさに大器晩成の典型である。43戦12勝を挙げ天皇賞を含む5つの重賞を勝った。
1974年生まれのプリティアカツキは、新馬戦勝ちのわずか1勝馬ながらオークスに挑み、これは15着と大敗した。しかし秋のクイーンSを優勝した。
1975年生まれのスリージャイアンツは、半兄が天皇賞、宝塚記念、高松宮杯を勝ったフジノパーシアという血統もあって、デビュー時から期待されていたが、なかなか勝ち上がることができなかった。また兄のように晩成型の血が開花せず、賢兄愚弟とまで言われ、このまま条件馬で終わるのではないかと思われていた。しかしやがて3200メートルのダイヤモンドSを勝ち、ついに天皇賞・秋(3200)を制覇した。彼はやはり典型的な晩成型のステイヤーだったのである。

セダン産駒の特徴は、比較的に素直で御しやすい馬が多かったのではなかろうか。細身で小柄な馬格の馬が多かったが、これはステイヤーの特徴だろう。素軽く、そのためか重馬場が苦手だった。持続する成長力があり、本質的には晩成型のステイヤーながら小気味よいスピードも持ち合わせ、短距離のレースや3歳(現馬齢2歳)から活躍する馬が多かった。また無事之名馬と呼べるような健康なタフさもあり、ダートもこなした。
産駒に屑馬は少なく、みなある程度は活躍した。重賞勝ちした馬たちを列挙すれば、種牡馬としては成功であり、一流であろう。
ちなみにトウフクセダン(1973生まれ)は「走る労働者」と呼ばれ、56戦7勝と重賞戦線でタフに活躍し続けた。実はこの馬、セダン産駒ではない。父がネヴァービート、母の父がセダンであった。宮田仁騎手にとってトウフクセダンはまさに「この人この一頭」であったろう。彼等は東京新聞杯、オールカマー、ダイヤモンドSを勝っている。この馬もネヴァービートよりもセダンの特徴が色濃かった。セダンはブルードメアサイアーとしても、なかなか優秀だったのである。
しかしプリンスローズ系の名馬セダンの血は、日本で途絶えた。当時の日本の馬産界は舶来モノならありがたがり、特に流行の血がもてはやされ、内国産種牡馬を蔑ろにする風潮が強かった(今でもその傾向はあるが)。
そのためコーネルランサーもアイフルも種牡馬となったが、ほとんど蔑ろにされ、ろくな機会も与えられず、名馬セダンの血は日本で途絶えたのである。一流血統馬や名馬を日本に輸出し、活躍馬が出てもそこから後が続かず、その血はほとんど途絶えるのである。だから、日本は欧米の競馬界から「血統の墓場」と言われたのだ。
これはセダンに限ったことではなく、その後継は三代、四代と続かないのである。ネヴァーセイダイ系もネヴァービートの成功で数多くの種牡馬が日本に来たが、その父系は全く残っていない。マイバブー系のパーソロンの大成功で大挙輸入されたが、その父系もほとんど残っていない。プリンスリーギフト系の父系も全く残っていない。レッドゴッドの系統は今も欧米でブラッシンググルーム(赤面する花嫁)系として、ナシュワン、レインボークエスト等、多くの活躍馬が輩出され繁栄しているが、レッドゴッド産駒で類い希なスピードを持ったイエローゴッドの血は、日本で途絶えたのである。
レインボークエスト産駒のサクラローレルは、後継種牡馬に恵まれていない。日本はナシュワンの晩年の産駒パゴを輸入したが、おそらくバゴの血も日本で途絶えるだろう。パゴの代表産駒の菊花賞馬ビッグウィークは種牡馬になれなかった。
サンデーサイレンスの登場以降、その優れた産駒たちが後継種牡馬としても数多くの活躍馬を出し、種牡馬の舶来信仰は薄れたかに見える。しかしそれはサンデーサイレンス系に限ったことで、トニービンもブライアンズタイムの後継も、今や風前の灯火のように思われる。サンデーサイレンス系も、これから果たして四代、五代と続くだろうか。
舶来信仰はおそらく「日本的」特質なのだろう。馬に限らず、「外国人騎手は上手い」という信仰が続き、その信仰はむしろ強固になりつつある。何勝しようが、ラフプレーの多い香港の騎手などもてはやすべきではないのに。