名歌誕生の不思議


 われは湖(うみ)の子さすらいの
 旅にしあればしみじみと
 のぼる狭霧やさざなみの
 志賀の都よいざさらば


 松は緑に砂白き
 雄松(おまつ)が里の乙女子は
 赤い椿の森蔭に
 はかない恋に泣くとかや


 波のまにまに漂えば
 赤い泊火なつかしみ
 行方定めぬ浪枕
 今日は今津か長浜か


 瑠璃の花園珊瑚の宮
 古い伝えの竹生島
 仏の御手にいだかれて
 ねむれ乙女子やすらけく

「琵琶湖周航の歌」は旧制第三高等学校の端艇部の歌として歌われはじめ、ほどなく第三高等学校(京都帝国大学)全体の寮歌として、やがて各地の旧制高等学校でも歌われるようになった。詩と旋律が若者たちの持つ青春のリリシズムに響いたのであろう。

明治26年に第三高等学校のボート部が創設以来、毎年学年末(この頃の旧制高等学校、大学は9月が学年初め、6月末が学年末で7月卒業であった)に、ナックルフォア(四人漕手四人、舵手一人)数艇に分乗し、数日かけて琵琶湖を周航するのが恒例行事であった。
小口太郎は明治30年(1897年)、諏訪湖西岸の岡谷の湊村(現岡谷市)出身で、大正5年9月に、第三高等学校の二部(理工農進学コース)に進学した。小柄でどこか女性的な優雅さがあり、温和な性格で、優しい面立ちと切れ長の目をし、笑窪が愛らしい美青年であったという。
大正6年(1917年)6月27日、二部の学生たちはフィックス艇(漕手六人、舵手一人)に乗り、この恒例の周航に参加した。
彼らは合宿所のある琵琶湖南端の大津三保ヶ崎を出発し、西岸沿いに北上し雄松で宿泊した。二日目も北上して今津で宿泊した。次の日は今津から東進して竹生島に寄り、長浜で昼食休憩し、南下して彦根で宿泊した。最終日は彦根を出発して、長命寺で昼食を取り、南下を続けて大津に戻った。
小口は漕艇中に詩想を得て、密かに詩作し、今津で焚き火を囲んで放歌高吟しているとき、友人の中安治郎に見せた。すると中安が「おいみんな、小口がこんな詩を作ったぞ」と仲間たちに紹介した。それはなかなか評判が良かったが、仲間や先輩も「ここはこう表現したらどうだ」と意見を言った。小口は仲間や先輩の意見を取り入れ修正したらしい。おそらく詩は二番か三番までであったろう。
その詞を前に「どんな曲で歌えば合うだろうか」と放歌高吟青年たちが、いろいろ試したのだろう。そのうち谷口謙亮がふと思いついて言った。「おい、『ひつじぐさ』の旋律が合いそうだな」…。
当時三高の学生たちが好んで歌っていた哀愁と情感漂うイギリス民謡「ひつじぐさ」のメロディで歌って見たところ、歌詞にピタリと合った。「おお」「合うじゃないか」
小口は曲も自分で作ろうと思っていたのだが、みんな「ひつじぐさ」で盛り上がってしまった。
今日歌われている六番までの歌詞は、翌大正7年にはできていたらしい。仲間や先輩の意見も取り入れ、小口太郎がまとめたのだろう。
やがて「琵琶湖周航の歌」は、端艇部だけでなく、三高全体の学生たちによって歌い継がれ、広まっていった。しかし「ひつじぐさ」も譜面があったわけでもなく、口伝えで継承されたため、原曲のとはかなり違うらしい。

小口太郎は第三高等学校を卒業すると、東京帝国大学理学部物理科に進学した。彼は「きわめて頭脳明晰で真摯」であったという。在学中に「有線及び無線多重電信電話法」を発明し、数か国の特許を得たという。卒業後は東京帝大付属の東京航空研究所嘱託の研究者として勤務した。
太郎は徴兵検査を受けた後、神経衰弱となり、退所した。諏訪湖畔の故郷に戻ったが、病は重くなるばかりで、大正13年に豊多摩郡の淀橋町の病院に転院している。その療養の甲斐なく、大正13年5月に27歳で亡くなった。
自殺であった。鬱病だったのかも知れない。その頃彼は、諏訪中学の後輩の妹・浜岡すずと婚約していたが、小口家は浜岡家に対し「太郎は脳溢血で亡くなった」と伝えた。

「琵琶湖周航の歌」は学生たちの間でのみ歌われていた。1933年(昭和8年)にタイヘイレコードから「第三高等学校自由寮生徒」の歌唱によるものとして発売されている。
第二次世界大戦後は歌謡曲としてひっそりと歌われ続け、昭和30年代になると歌声喫茶でも歌われるようになった。昭和36年(1961年)にボニージャックスが、さらにペギー葉山、小林旭が歌い、その後も多くの歌手によって歌われている。昭和46年(1971年)、加藤登紀子が「琵琶湖周航の歌」をカバーし70万枚を売り上げた(これまで60組以上の歌手がカバーしている)。この加藤登紀子の大ヒットから「琵琶湖周航の歌」の研究や調査が始まったのである。
「琵琶湖周航の歌」は作詞作曲・小口太郎とされていて、「ひつじぐさ」を原曲としていることは忘れられていた。「ひつじぐさ」はイギリス民謡らしい。イギリス民謡とされているが不明なことが多い。そもそも曲は伝わっていなかったのではないか?ではその作曲者は誰なのかという調査が本格化した。
やがて「吉田ちあき」という人がイギリス民謡「ひつじぐさ」を七五調で訳し、その訳詞に自ら曲を付けたらしい。
しかし、「吉田ちあき」という人は、どこのどんな人かは、ほとんど知られていなかった。
その「ひつじぐさ」の楽譜が出てきたのは昭和50年代に入ってからである。どうやら「吉田ちあき」は、新潟に縁があるらしいことがわかってきた。
そして地元紙の小さな記事が、偶然「吉田ちあき」を特定することになった。

平成5年、新潟県安田町で「吉田東伍展」の準備をしていた旗野博氏の目に、新潟県の地方紙の小さな記事が目に留まった。滋賀県今津町教育委員会の落合良平氏が「琵琶湖周航の歌」で町興しを企画しており、作曲者「吉田ちあき」の消息を探している、というのである。旗野博氏は吉田家の系図を目にしていた。
吉田東伍の次男は「吉田千秋」であり、元新潟大学文学部教授の吉田冬蔵氏の実兄である。旗野博氏は冬蔵氏に連絡を入れた。
吉田千秋は11才年上の吉田冬蔵氏の実兄である。冬蔵氏は旧制新潟高等学校に通っていた時に「琵琶湖周航の歌」を良く歌ったという。愛唱していた歌の作者が、夭折した兄の千秋であったとは!
千秋は、歴史・地理学の巨人・吉田東伍の次男であった。天才・吉田東伍は大正7年に亡くなったが、その翌年に千秋は24歳で夭折していた。

吉田千秋は明治28年(1895年)2月に、新潟県中蒲原郡小鹿村大字大鹿(現・新潟市)に生まれた。兄は春太郎、妹が小夏、弟が冬蔵、その後に生まれた妹は、梅とあやめである。
千秋の誕生時はちょうど日清戦争の最中で、父・東伍は読売新聞の従軍記者として軍艦「橋立」の上にいた。
東伍は吉田家の婿養子だったが、大鹿の家ではなく、東京で研究と執筆生活を送っていた。千秋の二歳の時、母と上京して父と暮らし、尋常小学校に入学したが、数ヶ月後に新潟の実家に預けられて転校した。高等小学校に入学したのも新潟だったが、二年次には再び東京に転校した。明治40年に東京で中学校に入学したが、その頃に肺結核に罹患した。
彼は英語、フランス語、ドイツ語、ラテン語、ギリシャ語、ロシア語など外国語を独学し、さらにはドイツ語の本で音楽を独習した。療養のために入院した茅ヶ崎南湖院の院長であった高田耕安を通じ、キリスト教に触れ、聖書も外国語で読んだという。
千秋が中学校に入学した頃、東伍は千秋と兄の俊太郎の語学の勉強のため、高価だった蓄音機を買い与えた。二人はこの蓄音機にかじりついて英語のレコードを聴いたらしい。千秋の英語聞き取りの能力は優秀だったという。音楽は独学だったのだが、耳が良かったのであろう。聞き覚えた曲を採譜し、さらに自分の声域にあわせて歌っていた。千秋の声は低く、ハーモニカを器用に吹き、バイオリンや手風琴(アコーディオン)や卓上ピアノを上手に弾いたという。
千秋の音楽はやがて作詞と作曲に向かった。彼は自分で作詞、訳詞したものに曲を付けた。本当は自分で歌いたかったに違いない。今ならシンガーソングライターを目指しただろう。彼は自分の作品を、雑誌へ投稿した。
明治45年、大日本農会附属東京農学校(現東京農業大学)に入学した。大正4年に、イギリス民謡の英語の詞を訳し、混声4部合唱曲「ひつじぐさ」を作曲した。これは「音楽界」8月号に掲載された。その「ひつじぐさ」が気に入り、愛唱する青年たちがいた。それは静かに、千秋の知らない遠い所で広がっていったのだ。
千秋は京都に行ったことがない。谷口謙亮という青年も知らない。千秋は琵琶湖を見たことがない。小口太郎という青年と会ったこともない。
病状が悪化し、東京農大を休学、後に退学した。茅ヶ崎南湖院への入院を経て、その年の秋には新潟の大鹿に帰郷し、療養することになった。
大鹿ではキリスト教無教会派の集会に参加し、オルガンで讃美歌などの作編曲や唱歌の指導をし、実家の庭にチューリップや菖蒲、ダリアやボタンなどの花を植えた。
大正7年に父・東伍が亡くなった。その翌8年2月、千秋は24年の短い生涯を閉じた。
千秋は自分の作った曲が、全く別の詞で、「琵琶湖周航の歌」として歌われていたことなど、知るよしもなかった。