掌説うためいろ 唱歌事始め

留学生を含めて百七名の岩倉遣欧使節団が横浜港を発ったのは、陰暦の明治四年十一月十二日である。明治政府の中枢がそっくり留守にしたようなもので、何とも思い切ったことをしたものである。その使節団が帰国したとき、陽暦の明治六年九月十三日になっていた。政府の留守居役が、暦制を変更していたのである。
岡田芳郎の「暦ものがたり」によれば、明治五年十一月、政府が突然太陰暦から太陽暦へと改暦したのは、財政難のためであったらしい。三年ごとに閏年(一年が十三ヶ月ある)がやって来ると、その年は官吏に十三ヶ月分の給料を支払わねばならない。閏年の明治元年、三年は官吏の給料は年俸制であったが、それ以後月給制となっていた。ところが来る明治六年は閏年である。明治政府に十三ヶ月分の給料を支払う財政的余力はなかったのだ。政府は突然、明治五年の十二月三日をもって太陽暦の明治六年一月一日とした。十二月が二日しかないことから、「十二月分の給料は支払わなくてもよかろう」と、まんまと二ヶ月分の官吏の給料を浮かした。知恵者がいたのである。

岩倉使節団一行は、実に精力的にあらゆる施設を視察して回った。船と馬車と列車のみの交通手段ながら、すさまじいばかりの強行軍である。大使、随員以下、誰一人過労で命を落とさずに済んだのは、実に奇蹟のようである。工場、鉱山、市場、農場、公園、商業地区、銀行施設や金融街はもちろん、繁華街・劇場街、病院、看護学校、福祉・助産施設、学校などの教育施設等、あらゆる施設を訪ねては、憲法や法令、制度・仕組みを聞き、質問し、記録している。「米欧回覧実記」という貴重な記録を残した大使随行の久米邦武に感謝しなければならない(後に久米は日本の近代的歴史学をうち立てたのだが、天皇制イデオロギーから自由だったため、東京帝大の教授から追放されてしまった)。
彼らは教育施設を訪ね、その現場を見学した。教育方法や制度を訊ねた。彼らの関心や質問は、教育の全分野に及んだ。体育も、そして音楽教育も含まれ、さらに子どもたちに教えるべき「唱歌」の存在まで記録し、強い関心を示した。
明治七、八年頃、文部省は音楽、唱歌教育の指導者として、アメリカの音楽教育家として名高いルーサー・W・メーソンの招聘を打診した。メーソンは色よい返事をしなかったが、日本と日本人への音楽教育には興味を抱くようになった。

伊沢修二は嘉永四年、信濃の伊那谷に生まれた。父は高遠藩の貧しい下級武士であった。慶応三年に江戸に出、そのまま京に上って蘭学をかじった後、高遠藩の貢進生として大学南校で学んだ。つまり、後の東京帝大の理工科系に学んだのである。明治五年に文部省に入り、工部省を経て再び文部省に移って、明治七年に愛知師範学校の校長に赴任した。
伊沢はこの師範学校で、文部省の指示もあって音楽・唱歌教育の実験授業を試みている。地元に伝わる古い童唄に、国学教師の野村秋足に今様の詞をつけさせ、集めた子どもたちに輪遊びをさせたのである。こうして音楽・唱歌教育の方法を模索し、文部省にも報告した。この時、野村が作詞したのが「胡蝶」であった。

てふてふ てふてふ 菜の葉にとまれ
なのはにあいたら 桜にとまれ
さくらの花の さかゆる御代に
とまれよあそべ あそべよとまれ

翌年、伊沢は師範学校の実地調査を目的としたアメリカ留学を命じられた。彼はマサチューセッツ州ボストン郊外のブリッジウォーター師範学校に入った。
その師範学校とは別に、伊沢はグラハム・ベルの下で「視話術」なるものを学んだ。伊沢は聾唖教育の研究にも熱心に取り組んでいるから、視話術とは手話のことなのだろう。その頃ベルは電話の研究もしており、それは殆ど完成に近づいていた。伊沢はベルの実験に付き合わされた。そしてついにグラハム・ベルは、世界で初めて電話をかけた人になり、世界で初めて電話を受けた人は、伊沢修二であった。
さらに伊沢はハーバード大学にも通い、理化学と地質学を学んでいる。彼は実に多忙であり、精力的であった。
伊沢は師範学校の音楽の授業が全く不得手で苦痛だった。欧米の音律についていけなかったのである。何しろ、子どもの時分に童唄を歌ったことはあるが、長じて詩吟くらいしか唸ったことはない。ブリッジウォーター師範学校のA・G・ボイデン校長から「君にはどうも西洋の音楽は無理なようだ。特別に音楽の履修を免除してあげよう」と言われた。それが彼には屈辱だったようである。自分は日本を代表して留学してきたのである。全てを履修せねば申し訳も立たぬ。伊沢はボイデンのせっかくの話を断り、猛烈に西洋音楽を学び始めた。

その頃「音楽に興味はないか、あれば私から個人レッスンを受ける気はないか」とボストンの日本人留学生に声を掛ける男がいた。かのメーソンである。伊沢はメーソンから毎週末に個人レッスンを受けることにした。
メーソンの個人レッスンは変わっていた。彼は伊沢に日本語を喋らせ、日本の古い文学や詩歌について聞き取りした。また伊沢に知っている限りの童唄を歌わせ、知っている限りの詩吟や謡曲を唸らせた。まるでメーソンがレッスンを受けているようであった。
あるときメーソンが一つの楽譜を伊沢に渡し、
「これはアメリカの子どもたちも歌っている曲だ。元々スペイン民謡だが、日本人の伝統的音律に合うかも知れない。これに日本語の詞をつけてみたらどうだね」
と言った。
伊沢はすぐにピアノに向かい、そのスペイン民謡を弾いてみた。彼はかつて野村秋足に作らせた「胡蝶」という詞を思い出した。その曲に合わせて「胡蝶」を口ずさむと不思議にぴたりとはまった。かたわらで聴いていたメーソンは大きく頷いた。この方法で日本の唱歌が作れるかも知れないと伊沢は思った。

明治十一年、訪米中だった文部省の上司・目賀田種太郎に音楽教育が子どもたちの情操に果たす役割や、外国との交際上果たす役割の重要性を訴え、連名で本省に具申書を提出した。伊沢はその年の五月、父病没の報に接して予定より一年早く帰国した。
翌年の春、伊沢は東京師範学校の校長になったが、ほどなく文部省が新設した音楽取調掛(音楽取調所)の取調御用掛に任命された。この音楽取調掛は唱歌教科書編纂や音楽教師の育成を行い、後に東京音楽学校に発展する。
さっそく伊沢が推薦した複数の人材が御用掛に任用された。先ず東京師範学校の稲垣千頴(ちかい)を筆頭に、大槻文彦、里見義(ただし)、加部厳夫(いずお)等である。彼らの多くは歌学や平安文学等の和文学や、国学の素養豊かな者たちであった。彼らは漢詩や漢学にも長じ、中国の故事にも通じていた。なぜ彼らか。子どもたちに歌わせる唱歌は、単に音楽の問題ではなく、日本国語の問題だからである。曲と曲意を理解する感性と、和文学や歌学の感性と、正しく優れた日本国語を駆使する能力が欲しい。国語・言葉には、優雅さと高い品格が欲しい。
先ず「小学唱歌集」の編纂である。かつて野村秋足が作詞した「胡蝶」は歌詞が一番しかなかったが、稲垣千頴が二番の詞を書き、日本で最初の唱歌「蝶々」が生まれた。

おきよ おきよ ねぐらのすずめ
朝日のひかりの さしこぬさきに
ねぐらをいでて こずえにとまり
あそべよすずめ うたえよすずめ

同様に、「民約論」の著者で教育思想家であり、作曲者でもあったジャン・ジャック・ルソーの「村の占い師」を原曲としたメロディーに、柴田清煕が一番、稲垣千頴が二番の詞を書き「見わたせば」ができた。

見わたせば、あおやなぎ、
花桜、こきまぜて、
みやこには、みちもせに
春の錦をぞ。
さおひめの、おりなして、
ふるあめに、そめにける。

みわたせば、やまべには、
おのえにも、ふもとにも、
うすきこき、もみじ葉の
あきの錦をぞ。
たつたひめ、おりかけて、
つゆ霜に、さらしける。

これは後に歌詞が変わって「むすんでひらいて」となり、今も幼童たちに歌われ続けている。
明治十三年、伊沢はアメリカから師のメーソンを招き、共に日本の音楽教育の人材の育成と、唱歌教育に取り組むことになった。
「蝶々」や「見わたせば」は、東京女子師範学校付属幼稚園や東京師範学校付属小学校で、メーソン自らバイオリンを演奏して実際に教えてみた。子供たちは飽くことなく熱心に歌い続けたという。
音楽取調掛では、メーソンが「これはどうだ」と提示した外国曲の旋律を御用掛が合議で検討して選曲し、一人が作詞を担当して、その曲に日本語の詞を当て込んだ。それを合議であれこれの検討を加え、最後は首席格の稲垣が補作、修正し、決定したようである。曲の修正や編曲は伊沢が主導し、これを決定したものと思われる。
メーソンは日本的な雅なるもの、その叙情と詩情、風韻、品位、言葉の音律の正体を理解していたと思われる。彼が示した曲の多くは、それらに添い、五七調に合うものだったからである。その濫觴は万葉集や新古今等の詩や、平安文学にあると見たのであろう。
明治十四年、「小学唱歌集初編」に初出の「蛍」(後に「蛍の光」と改題)はスコットランド民謡であった。端から卒業時の歌として作詞されたという。

ほたるのひかり、まどのゆき
書(ふみ)よむつき日。かさねつゝ。
いつしか年も。すぎのとを。
あけてぞけさは。わかれゆく。

とまるもゆくも。かぎりとて。
かたみにおもふちよろずの。
こゝろのはしを。ひとことに。
さきくとばかり。うたふなり。

「蛍の光」の歌詞は四番まであったが、今はほとんど歌われていない。

筑紫の極み、陸の奥、
海山遠く、隔つとも、
その真心は、隔てなく、
一つに尽くせ、國の為。

千島の奥も、沖縄の、
八洲の内の、護りなり、
至らん國に、勲しく、
努めよ我が背、恙無く。

作詞者は稲垣千頴説や異論もあって、公式には長く不詳とされてきた。中西光雄は伊沢が記した「唱歌略説」を発見した。そこには「此歌は稲垣千頴の作にして学生等が数年間勤学し蛍雪の功をつみ業成り事遂げて学校を去るに当り別れを同窓の友につげ…」とあるという。中西は歴史に埋もれた謎の稲垣千頴を発掘した。そしてどうやら稲垣は天才と言ってよいほどの、類い希な才能の持ち主だったのである。曲に後から詞をはめこむのは、昔も今も難しい。稲垣はそれを鮮やかにやってのけている。
こうして「小学唱歌集」が編まれていったが、これらの曲も歌も文部省のお偉方にはさんざんな不評だった。東京女子師範で「小学唱歌集初編」の演奏会が開催された。そこに皇后が来臨し、たいへん喜ばれて学生や子どもらと共に歌を口ずさまれたらしい。「唱歌略説」はそのおりに記されたという。以後、文部省のお偉方の不評はようやく引っ込んだ。

メーソンが示した外国曲には、当然ながら日本語の韻律やアクセントに合わぬ曲も多い。しかし稲垣は五七調に拘らず、また伊沢は曲自体を、全く出自すら分からぬほど変曲(編曲)したふしがある。何しろ伊沢は後の明治二十年、国産オルガンの一号機を製造した元紀州藩士・山葉寅楠が、これを伊沢のところに持ち込むと、その調律の不正確さを的確に指摘し、彼に西洋の音階や音楽理論、楽器について教授するほど、当代一流の音楽家になっていたのである。
明治十七年に発行された「小学唱歌集第三編」に初出の「仰げば尊し」は、公式には作詞・作曲共に不詳とされているが、どうやらこれも作詞は稲垣千頴、作曲は伊沢修二であるらしい。原曲はどこかの国の古民謡か古い賛美歌に違いない。八分の六拍子でニ長調または変ホ長調である。この歌は伊沢の指示で、「蛍の光」とセットで歌われるように作詞されている。

仰げば尊し、わが師の恩。
教への庭にも、はや幾年(いくとせ)。
おもへば、いと疾(と)し、この歳月(としつき)。
今こそ別れめ、いざ、さらば。

互ひに睦みし日頃の恩。
別るる後にも、やよ、忘るな。
身を立て。名をあげ、やよ、励めよ。
今こそ別れめ、いざ、さらば。

朝夕なれにし、まなびの窓。
螢のともし火、積む白雪。
忘るる間ぞなき ゆく歳月
今こそ別れめ、いざ、さらば。

明治十八年夏、音楽取調掛は、卒業を迎えた全科の一期生を送る演奏会を開催した。この時、「仰げば尊し」はお琴と胡弓で演奏された。この現代まで歌い継がれる「蛍の光」「仰げば尊し」の詩を残した稲垣千頴とは何者だったのか。
中西光雄の研究によれば、稲垣千頴は奥州棚倉の中級武士の家に生まれた。本名を真次郎といった。その後、棚倉藩は武州川越に転封された。千頴は非常に優秀な人だったらしく、和漢の教養・学識高く、国学者として歌人として抜きんで、十代で藩校の教師を務め、藩主の命を受けて京都に遊学した。明治二年、国学者・平田鉄胤の気吹舎(いぶきのや)に入塾した千頴は、たちまち頭角を現して、入塾二年目に二十代の若さで塾長となった。しかし周りから妬みを買ったらしく、塾の規則に反して遊郭に出入りしたことを理由に、間もなく退塾させられたという。その後数年間、どうしていたかは不明だが、明治七年に東京師範学校に雇われている。師範学校では古典文学を教える傍ら、国文と国史の教科書を次々と出版した。
明治十二年、東京師範学校の校長となった伊沢修二と出会い、音楽取調掛の御用掛に推挽された。千頴の音楽取調掛の地位は助教諭にすぎなかったが、曲選びや詩作の合議においてはリーダー格だったらしい。歌学や和文学、国学、漢詩や中国の故事にも通じていた稲垣千頴の素養の高さは、伊沢を驚かせたに違いない。彼なら優雅で品格のある国語・言葉の教育でもある唱歌の編纂に適しているのではないか。情操と感性の教育に適しているのではないか。
稲垣千頴は明治十七年に助教諭から教諭になったが、突然辞職している。理由は不明である。彼は翌年夏の音楽取調掛一期生たちの卒業式に列席することなく、彼らの歌う「蛍の光」も「仰げば尊し」も聴くことはなかったのである。
千頴は東京師範学校の同窓会には何度も出席し、卒業生等と教育方法や教育問題などの対話をしていたらしい。良い先生だったのだ。彼が亡くなったのは大正二年だが、それまで何をしていたのかも不明である。千頴は今も謎のまま谷中霊園に眠っている。

稲垣千頴と同様に里見義もほとんど知られていない。彼には一枚の写真も残されていない。彼は「庭の千草」や「埴生の宿」の作詞者とされている。「埴生の宿」は原詩に忠実だったらしい。とすれば訳詞だろうか。
里見は文政七年、今の福岡県豊津町の中級の武士の家に生まれた。故郷で育徳館の教師を務め、齢五十をとうに過ぎてから初めて上京して、カナダ人宣教師の家に身を寄せている。おそらく英語を学ぼうとしたのだろう。音楽取調御用掛に任用されるだけの、相当に高い教養を持った人だったに違いなく、また進取の気性に富んだ柔軟な精神の持ち主だったと思われる。亡くなったのは明治十九年のことである。
…日本の唱歌事始めは、これらの今は埋もれた才人たちによってなされたのだ。