中山晋平の音楽世界

NHKの紅白歌合戦は、当初から年末に行われていたわけではない。第1回も2回も、1月3日に東京放送会館の第1スタジオを使い、夜の7時半から9時までの一時間半の生放送だったのである。第3回は1月2日に放送されている。
この昭和27年の第2回紅白歌合戦の審査委員長は中山晋平だった。
この年の秋、黒澤明の「生きる」(東宝製作・配給)が発表された。東宝創立20周年記念映画である。志村喬がブランコを揺らしながら「ゴンドラの唄」を口ずさむシーンは有名である。この映画はその後、第4回ベルリン国際映画祭で、ベルリン市政府特別賞を受賞し、第26回キネマ旬報ベスト・テンの1位、昭和27年度芸術祭賞を受賞した。


 いのち短し恋せよ乙女
 あかき唇あせぬ間に
 熱き血潮の冷えぬ間に
 明日の月日はないものを
 (映画では「明日という日も/ないものを」と歌っている)

 いのち短し恋せよ乙女
 いざ手をとりてかの舟に
 いざ燃ゆる頬を君が頬に
 ここには誰れも来ぬものを

大正4年4月、島村抱月と松井須磨子の芸術座が、ツルゲーネフの「その前夜」をかけた時に、その劇中歌が「ゴンドラの唄」で、中山晋平作曲、吉井勇の作詞だった。この歌は大ヒットした。
…それから37年も経った。昭和27年の12月1日、晋平はこの「生きる」を恵比寿駅前の映画館に見に行き、あまり座り心地のよくない客席に身を沈め、志村喬の唄う「ゴンドラの唄」を聴いた。
その翌日、晋平は倒れた。病院に運び込まれ診察を受けると、彼は膵臓癌に冒されていた。晋平は自宅のある熱海の熱海国立病院に運ばれて治療に入った。しかし年の瀬の30日に、その生涯に幕を閉じた。

中山晋平は、明治20年、長野県下高井郡新野村の代々名主の家の四男として生まれた。父は村長も務めた。晋平は幼い頃から、近くの新野神社に奉納する式三番叟の笛役に加わった。「ほう」と周囲の大人たちが感心した。晋平の音楽の才であろう。
日清戦争が始まった頃、中山家を相次いで不幸が襲った。父と長兄が亡くなったのである。家の暮らしは急迫した。母ぞうは残された四人の子どもを育てることになった。晋平は下高井高等小学校に進んだ。音楽好きで、先生にオルガンの弾き方を教えて貰った。しかし、満足に学費が払えずに中退せざるをえなかった。彼は小諸の呉服店に奉公に出て家計を助けたが、母と別れた淋しさから店を辞め、家に戻って来てしまった。
母は晋平を復学させ、働きづめに働き、彼を卒業させ、さらに長野県師範学校講習科第三種に進学させた。晋平は無事修了すると、瑞穂村柏尾尋常小学校の代用教員になった。16歳である。
彼は子どもたちに音楽を教えることに喜びを感じた。子どもたちも彼を「唱歌先生」と呼んだ。準訓導になったが、どうしても本格的に音楽を学びたいと強く思うようになった。
縁あって、島村抱月の実弟に嫁いだ北信濃出身の女性から、早稲田大学教授の島村抱月が書生を求めていると聞いた。耳よりな話である。抱月はイギリス、ドイツ留学から帰国したばかりであった。晋平は兄弟から反対されたものの、母の後押しもあって上京し、抱月の家を訪ね、彼の面接を受けた。
こうして晋平は抱月の書生となり、家事全般から雑用、論文の清書、「早稲田文学」の編集助手まで、なんでもやることとなった。
その間、事あるごとに抱月は「大衆なくして芸術は存在しえない」と晋平に言い聞かせたという。やがて抱月は晋平の音楽の夢を叶えるべく、洋楽家の東儀鐡笛の書生になることを勧めた。抱月と鐡笛は親しく、家もごく近所だった。晋平は鐡笛の書生となった。鐡笛は晋平にヴァィオリンを教えた。
再び抱月の家に書生として呼び戻された晋平は、彼から金を借りて中古オルガンを買い音楽の勉強を続けた。明治41年に晋平は東京音楽学校予科に入学した。さらに本科ピアノに進級し、たまたま同郷の先輩・高野辰之から、歌謡史を学ぶ機会も持った。
卒業後、浅草区の千束尋常小学校で音楽教師となったが、学校へは抱月の家から通った。

時代は大正に入った。この頃、晋平は三角関係に巻き込まれる。それは師の抱月と芸術座の看板女優・松井須磨子、抱月の妻の三角関係である。抱月の妻は、晋平に二人について探りを入れさせるのである。これが晋平の心を悩ませた。やがて夫人は抱月と須磨子の現場を押さえ、一悶着あった。晋平はうんざりした。
大正3年、芸術座は第三回公演にトルストイの名作「復活」をかけた。抱月は晋平にその劇中歌「カチューシャの唄」の作曲を命じた。作詞は抱月と相馬御風によるものである。
「カチューシャの唄」は松井須磨子の独唱で、大評判となった。このデビュー曲で、作曲の中山晋平の名は一挙に知られたのである。晋平27歳であった。
晋平の曲の特徴は「ヨナ抜き」と「ピョンコ節」である。つまり西洋音楽の七音音階からファとシを抜いた五音音階が活かされており、またスキップしたようなリズムなのである。
翌年4月、「ゴンドラの唄」で再び大評判をとった。その成功の直後、母のぞうが亡くなった。母の葬儀から戻る車中、その悲しみが晋平にひとつのメロディを口ずさませた。それが「生ける屍」の劇中歌「さすらいの唄」となった。作詞は北原白秋である。これも大ヒットとなった。
大正7年の11月、師の島村抱月が大流行のスペイン風邪で亡くなった。その二ヶ月後に、悲しみにくれた松井須磨子が自殺し、芸術座は消滅した。

中山晋平は北原白秋や野口雨情と組んで、童謡に曲を付けるようになった。これらも評判となり、晋平は千束尋常小学校を辞め、作曲に専念することにした。白秋や雨情とは童謡に限らず、歌謡曲や新民謡も手がけた。白秋とは「砂山」「にくいあん畜生」「恋の鳥」「酒場の唄」…。雨情とは「船頭小唄」「シャボン玉」「黄金虫」「波浮の港」「兎のダンス」「証城寺の狸囃子」「雨降りお月さん」…。また西条八十ともコンビを組み、「東京行進曲」は佐藤千夜子の歌唱で大ヒットした。さらに東京音楽学校出身の声楽家たちとの仕事も増えていった。それにしても、中山晋平の音楽の幅は広く、大きく、なんと豊かなのだろう。


 己(おれ)は河原の枯れ芒(すすき)
 同じお前もかれ芒
 どうせ二人はこの世では
 花の咲かない枯れ芒

 死ぬも生きるもねえお前
 水の流れに何変(かわ)ろ
 己もお前も利根川の
 船の船頭で暮らそうよ

晋平と雨情は、その童謡に対する考えもほとんど一致し、また新民謡づくりでも一致した。晋平は野口雨情を心から敬愛した。


 磯の鵜の鳥ゃ日暮れにゃ帰る
 波浮の港にゃ夕焼け小焼け
 明日の日和は
 ヤレホンニサ凪るやら

 船もせかれりゃ出船の仕度
 島の娘たちゃ御神火ぐらし
 なじょな心で
 ヤレホンニサいるのやら

昭和に入った。軍靴の音が近づいてくる。やがて日中戦争が起こり、それが長引き、拡大していった。
さらにアメリカとの戦端が開かれると、本居長世らと平和の同士であった野口雨情は失意のうちに、茨城に、さらに宇都宮の鶴田に疎開していった。
山田耕作らが盛んに忠君愛国、戦意高揚の軍歌を作る中、本居長世は音楽活動を止めた。晋平は公的な役職は続けたが、軍歌は苦手で、ほとんど作曲しなくなった。そしてかねてから持っていた熱海の別荘に居を移した。
晋平を衝撃が襲った。昭和20年1月、敬愛する野口雨情の訃報が入ったのである。晋平は慟哭したという。晋平はついに沈黙し、熱海に籠り、終戦を迎えた。…


 ソソラソラソラうさぎのダンス
 タラッタラッタラッタ
 ラッタラッタラッタラ
 あしで蹴り蹴り
 ピョッコピョッコ踊る
 耳にはちまき
 ラッタラッタラッタラ

 ソソラソラソラ可愛いダンス
 タラッタラッタラッタ
 ラッタラッタラッタラ
 とんで跳ね跳ね
 ピョッコピョッコ踊る
 あしに赤靴
 ラッタラッタラッタラ

この雨情と晋平の「兎のダンス」は、聴くたびに思わず微笑んでしまう。まさに中山晋平の特徴とされる「ピョンコ節」の真骨頂だろう。