暴走に対する妄想

当然のことながら、民主主義は戦争を抑止するものではない。民主主義下でも戦争は起こる。ときにこの政体は戦争を推進さえする。「多数決」という民意によって。
民主主義は多数決であるという。国民が選挙で政党代議員を選出し,ある政党に安定多数という権力を与えてしまうと、その権力が暴走を始めても、もはや誰もその暴走を止めることができなくなる。次の選挙までにはタイムラグがあり、その間に「民意」で選ばれたことを議決・権力の根拠とする政党・代議員によって、取り返しのつかない決定がなされることがある。
そもそも民主主義とは、各人の意見を尊重するがゆえに面倒くさく、もどかしいものである。だからプラトンは衆愚政治に陥りがちな民主主義より、哲人政治を唱えた。哲人政治とは高潔で私心のない「倫理」を持った人が指導する政治である。そんな政治家はほとんどおるまい。
そもそも民主主義とは、果断な決定を遅滞させるものなのである。そこに独裁政が魅力的に思える陥穽がある。だから皮肉屋のチャーチルは言った。 「民主主義は最悪の政治と言える。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」
各人が自らの意見を持つということはどういうことか。粗雑に、簡略的に言えば、自由にものが言え、表現ができ、権利を主張でき、それらが尊重されるということである。

ルソーが人民主権論を主唱し、ブルジョワたちが意見を持ちはじめ、市民革命が起こった。イェーリングの「権利のための闘争」によれば権利とは、民族の、国家権力の、階級の、個人の「闘争」であり、権利を規制する権力に対する闘争によってのみ、人はそれを手にすることができる。ただ権利は衝突の表現としてのみ意味を持ち「権利が社会闘争を真に解決しようとしたことは、今までにただの一度もなかったのだ。…ただ単に、最終的な決定が下されるまでの間、どのように争われるべきかを規則に定め、それらの闘争を穏やかなものにすることにあったのである。」…
オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」によれば、大衆とは「自由民主主義」と「科学的実験」(ちなみに彼は科学者嫌いで、科学者を「サピオ・イ グノランテ(無知の賢者)」と呼んだ)と「工業化」が作り出したものである。多数決の民主主義は大衆を生み、またマスプロダクツとマスセールスは誰もが同じ物を手にするという大衆の欲望を生む。オルテガは大衆の特権を「自分を棚に上げて言動に参加できること」とした。そして大衆は決して愚鈍ではなく、階級の上層下層のどちらにも存在し、全体が「無名」の、「新しい慣習のようなもの」で、「大衆とは心理的事実」のことなのである。大衆の観念は「思いつき」で、大衆の信念は「思い込み」である。やがて大衆の動向は社会が選択した信念として現れる。「危機とは二つの信念のはざまにあって、そのいずれの信念にも人々が向かえない状態のこと」なのだ。
大衆とは「権利」を手に入れ、己の欲望に愚鈍ではなく、高潔でも倫理的でも哲学的でもなく、それほど知性的でもない。しかしある動向に簡単に影響され流され操作され、「無名の意思」を「やみくもに現代社会に押しつけ」る存在であり、またやっかいなことに、そのいずれの信念にも「向かえない状態」(決定できぬ状態)をも作り出す存在なのである。
この観念や信念はどこで作られ、誰が作るものなのか。W・リップマンの「世論」や、D・ブーアスティンの「幻影の時代…マス コミが製造する事実」が分析し、仮説化した。
リップマンによれば「世論」とは、公的事柄に関する民衆の脳裏にある「イメージ」のことである。それは「ステレオタイプ」化された文化的に継承されてきたイメージである。「それぞれの人間は直接に得た確かな知識に基づいてではなく、自分で作り上げたイメージ、もしくは与えられたイメージに基づいて物事を行っていると想定しなければならない」「あるがままを事実をして受け止めるのではなく、自分たちが事実だと想定しているものを事実としている」のである。さらに、現代生活における諸事実が自然のままでは報道される形にはならず「誰かが諸事実に形を与え」「報道され、再現されるという直接の目的のために仕組まれたものである。」
ブーアスティンが「疑似イベント」と呼ぶものは、「自然発生的でなく、誰かがそれを計画し、たくらみ、あるいは煽動したために起こるもの」である。マスコミが、政府が、時には大衆自身が生み出す出来事であり、ニュースは取材されるものではなく、作られるもので、ニュースの提供者にとって提供する事実は、自らに利益をもたらすものに限られるというのである。
かつて人類は封建制を打破し、あるいはそこから脱却し公衆となっていった。しかし、ユルゲン・ハーバマスの「公共性(圏)の構造転換」によれば、20世紀を前後して、大企業やメディアによる高度資本化が進み、ブルジョワ(公衆)は経済問題の解決を国家に委ねるようになり、その自律性と公的空間を失って消滅する。こうして「受動的」に文化を消費する「大衆」が残った。ハーバマスはこの大量消費社会では公共圏が「再封建化」という構造転換が起こったと主張したのである。
…確かに超巨大資本やその市場原理の下で、再封建化は進んでいる。封建下に民主主義はない。「誰を総理に選べばよいのかは、市場が決めることです」と言い放った某外資系証券会社の女性アナリストがいた。その後彼女は自民党の国会議員となっている。

マッカーサーの副官(軍事秘書官)ボナー・F・フェラーズ准将は、日本人の心理分析の専門家であった。フェラーズは自他ともに認めるラフカディオ・ハーン好きで、日本人の心理を知る最良の本はハーンの「日本 ひとつの解釈の試み」(Japan-An Attempt at Interpretation/1904年)であると言いきった。
またフェラーズ等の研究チームは日本人の行動様式を、15の簡略な言葉で表した。「劣等感、軽信、型にはまった思考、物事を歪めて伝える傾向、自己演出、強い責任感、常軌を逸した攻撃性、野蛮、頑固、自滅に走る伝統、迷信、体面の重視、感情過多、家庭・家族への愛着、天皇崇拝」…。太平洋戦争中、あるいはそれ以前から進められていた敵国の研究と分析である。彼等といい、「菊と刀」のルース・ベネディクトといい、当否は別として、日本人の行動様式はずいぶん研究されていたわけである。
フェラーズは天皇に戦争責任を負わせないことと、天皇制を存続させ、むしろ日本の戦後統治に利用すべきだと、本国とマッカーサーに強く提言したとされる。…天皇は役立つ…。
ラフカディオ・ハーンは、アイルランド人の父とギリシャ人の母の間にギリシャのレフカダ島生まれた。後、アイルランドのダブリンに移り、大叔母に引き取られ、その後両親に会う事は一度もなかった。アイルランド、ケルト文化は妖精や精霊が存在する土地である。その影響で幼い時から霊感の強い子どもだったのだろう。彼は長じても一神教になじめず、西洋近代文明が自然の中に見え隠れする神秘を否定することに違和感を抱いていた。
フランスの神学校へ進んだハーンは、16歳の時、事故で左目を失明した。また別の女性と再婚していた父が病死し、その翌年には大叔母が破産したため、やむなく学業を断念し困窮生活を送った。19歳の時、移民船に乗り込んで一人アメリカに渡った。
24歳のとき運良く新聞記者となった。かたわら外国文学の翻訳や創作に手を染め、その文才が認められていった。彼は尊敬する女性ジャーナリストのエリザベス・ビスランドから日本の話を聞き、その国に強い興味を抱いた。
1890年 (明治23年)、ハーパーマガジン社の特派記者として日本にやって来たのは39歳の時である。ほどなく特派員の契約を破棄したハーンは、帝国大学のチェンバレン教授や文部省の紹介で、島根県の松江尋常中学校と師範学校の英語教師となった。英訳の「古事記」などを読んでいた彼は、神々の国、出雲行きを喜んだ。
「私は強く日本にひかれています。…この国で最も好きなものは、その国民、その素朴な人々です。天国みたいです。世界中を見ても、これ以上に魅力的で、素朴で、純粋な民族を見つけることはできないでしょう。…私は、日本人の神々、習慣、着物、鳥が鳴くような歌い方、彼らの住まい、迷信、弱さの全てを愛しています。…できるなら、世界で最も愛すべきこの国民のためにここにいたい。ここに根を降ろしたいと思っています」
「彼等は手と顔を洗い、口をすすぐ。これは神式のお祈りをする前に人々が決まってする清めの手続きである。それから彼等は日の昇る方向に顔をむけて柏手を四たび打ち、続いて祈る。…人々はみな、お日様、光の女君であられる天照大神にご挨拶申し上げているのである。『こんにち様。日の神様、今日も御機嫌麗しくあられませ。世の中を美しくなさいますお光り千万有難う存じまする』。たとえ口には出さずとも数えきれない人々の心がそんな祈りの言葉を捧げていることを私は疑わない」
ハーンはこの古い伝統と文化を守る城下町、松江がいたく気に入った。日本には西洋で失われた自然への畏敬、八百万(やおよろず)の神々への信仰が生きていた。彼はそれに瞠目し共感した。ハーンは日本文化と「魂」を、世界に知らしめようと考えた。こうして彼は日本の民話や伝説、怪談などを聞き、採集し、それを作品化して海外に紹介していくのである。
彼はこの松江で約一年半を過ごした。古い日本家屋に住み、着物を着て、日本食を食べ、日本の習慣に親しんだ。小泉セツとの結婚を勧められ、来日した翌明治24年に和風の結婚式を挙げた。彼女は、第七十五代出雲国造千家俊勝の次男で国学者・千家俊信の玄孫であった。
明治29年、彼は日本へ帰化し、小泉八雲と名乗った。妻の姓の小泉と、出雲の枕詞「八雲立つ」に因んだものである。
八雲は日本人として生活する中で、西洋が失った古き良きものを見出した。「西洋文明から日本の自然な、完全にノーマルな生活環境に融け込むと、プレッシャーがだいぶ減ります。西洋文明の根本的特徴である個人主義が、ここにはないのです。それは私にとって日本社会の魅力の一つです。ここでは、個人は他人を犠牲にするところまで、その範囲を広げようとはしないのです」 「…日本はキリスト教に改宗しても、道徳やその他の面に関して何の得もない。むしろ損をするところが多い」

「金儲けがなされ、収入が高く、生活水準が絶えず上昇し、必然的に無慈悲な競争が行われている所では、精神的・道徳的な弱者は、他の地域におけるよりもっと恐ろしい極端な行動に駆りたてられる。将来、日本の産業が発展すると共に、必然的に弱者の不幸の増加と、その結果として起こる悪徳と犯罪の増加が危ぶまれている。」…これは八雲が神戸時代、英字紙「神戸クロニクル」の論説「悲しい変化」(1894年10月)に書いた批評で、日本が日清戦争に突入した頃のことである。まるで今日的な内容ではなかろうか。何という先見性であったろうか。
八雲は国際情勢に通じたジャーナリストでもあった。彼は明治政府が推し進める近代化が、物質面に偏重し精神面を置き去りにしていることに強い懸念を抱いていた。福澤諭吉が「脱亜入欧論」を書いたのは1885年のことだが、それはその後の日本の国際論を主導した。しかし八雲は脱亜入欧論とは対照的に、日清戦争後に日本は、中国、朝鮮と三国同盟を結ぶべきだと主張したのである(神戸クロニクル紙解説「極東における三国同盟」)。
八雲はその生涯の最後の14年間を日本で過ごした。それは日清・日露の両戦争に挟まれた時代である。彼は神戸時代の一時期を除いて、松江、熊本、東京でそれぞれ中学、高校、大学の教壇に立った。東京帝国大学で七年近く英文学講師を勤めた後、早稲田大学に奉職したが、そのわずか半年後の日露戦争の最中、明治37年の9月に狭心症により他界し、雑司が谷霊園に葬られた。同年、岡倉天心が「東洋の理想」を著し、まるで八雲に呼応するかのように「アジアは一つ」と主張した。
八雲は、絶筆の「日本 ひとつの解釈の試み」の最終章でこう書いた。
「日本のこの度の全く予期しなかった攻撃力発揮の背後に控えている精神力とは、もちろん、過去の長い間の訓練のおかげであることは全く確かである。…そして全てのあの天晴れな勇気 ― 生命を何とも思わないという意味ではなく、死者の位を上げてくれる天皇のご命令には一命を捧げようという念願を表わす勇気なのだ。現在戦争に召集されている何千何万という若者の口から、名誉を担いながら故国に帰りたいなどという表現を一言も聞くことはできないだろう。 ― 異口同音に言っている希望は『招魂社』に長く名を留めたいということだけである。 ― この『社』は『あの死者の霊を迎える社』で、そこには天皇と祖国のために死んだ人すべての魂が集まるものと信じられている場所なのである。この古来からの信仰が、今戦時におけるほどに強烈に燃え上がった時はない。…日本人を論じて彼らは宗教には無関心だと説くほど、愚論はないだろう。宗教は、昔そうであったように、今なお相も変わらず、この国民の生命そのものなのである。 ― 国民のあらゆる行動の動機であり、指導力なのである」「日本の強さは、伝統的宗教の強さと同様に、物には現れていなくても、その民族の底に潜んでいる『民族の魂』にある」
日露戦争における日本人の精神力、勇気の源泉は、天皇を中心とする忠誠心・団結心であり、それと結びついた日本人の宗教的伝統だというのである。彼はこの宗教的伝統の核心は、祖先祭祀であり、神道であるとした。

八雲は、「怪談」など文学を通しての作家活動と、「日本暼見記」から「日本 ひとつの解釈の試み」のような著書によって日本を世界に紹介したジャパノロジストであつた。フェラーズはその良き読者であり、弟子であった。
無論、八雲に対する批評もある。「彼は近代化以前の古い日本のみを愛し、日本がの近代化に反対だったのではないか」「昭和期になって彼の作品が日本の国家主義、国粋主義の成長を助長したのではないか」というものである。
確かに八雲は旧き日本が有する稀有の素晴らしさを賛嘆し、西欧文明が浸透することで消滅することに、深い哀惜の念を表明した。八雲にとって欧米は、キリスト教のような一神教的価値観と、資本主義をアジアに強要する、まことに恐るべき存在なのであった。彼が警戒し警告したのは、自己拡大する資本主義とそれがもたらす物質称揚主義であって、日本の近代化に反対したわけではなかったのだ。
八雲は「ひとつの解釈の試み」の「産業の危機」の中で、日本が欧米の資本主義との競争に勝ち抜く為には、日本国民に自由で個性的な活動のできる能力が必要であるとし、そのためには画一的機械的な教育を改め、「人間憎悪の消滅と健全な世界同胞主義の普及を期待しうるのは、知性の成長によらなくてはならない」と書いた。実に現代的な教育論である。冷静なジャーナリスト小泉八雲には、開国から富国強兵、西洋近代化路線とナショナリズムへと邁進する日本の姿は、さぞ危ういものに見えたに違いない。

ざっと歴史を追ってみても、江戸中期以降、海外からの波がひたひたと日本沿岸にうち寄せている様がわかる。江戸後期ともなれば、犀利な人ならば攘夷の無効は瞭然である。攘夷は愚論なのだ。あまつさえ尊皇はほとんど合理性がない。改めて述べるまでもないが、古代天皇の政治的存在形式と、中世、戦国時代、江戸時代における天皇の存在形式は全く異なる。天皇には古代から続くという「貴種の権威」はあっても、全く権力はなかったのである。足利義満などは果たせなかったが、自らが天皇になろうとしたほどである。
幕末の孝明帝はゼノフォビアであった。彼から開国の勅書をもらうことは全く不可能だったのだから、幕府はさっさと開国を決めればよかったのだ。それまでは長く朝廷を無視していたのだから。しかし幕府はここで、それまで無視していた天皇の詔勅を得て、開国に伴う責任のリスクを分散化しようという、実に日本的伝統的な「責任所在の曖昧化」を謀ったのである。
案の定、孝明帝は開国の詔勅を峻拒した。そのため尊皇攘夷論が全国に沸騰した。寝ていた子を起こしたのである。
日本宗教史の村上重良の研究でも明らかなように、天皇はそれまで何の権力も持たぬ貴種の権威で、神主の最高位から授けられる権威的免許状の発行名義人に過ぎなかった。しかし俄然「権力者」と見なされたのである。これを外国公使たちは「権力の二重構造」と見た。水戸藩は全藩あげて尊皇狂気に陥った。長州は乗じた。龍馬も奔った。尊皇攘夷はたちまち倒幕に変じた。
孝明帝は、七年にわたって京都守護職として京の治安に当たり公武合体の推進者でもあった会津藩の松平容保に、最も篤い信頼を寄せていたのだ。孝明帝も公武合体論者であった。そのため孝明帝から遠避けられていた貧乏貴族の岩倉具視、不平貴族の三条実美の倒幕派と、薩長の倒幕派(彼らは攘夷から開国に変じていた)にとって、最も邪魔な存在は、孝明帝その人と松平容保になった。
ある日、ゼノフォビア以外ではいたって壮健だった孝明天皇が突然崩御したのである。毒殺説が囁かれて流布した由縁である。薩長土と岩倉、三条等はまだ14歳5ヶ月の、女官に囲まれ世事に全く関心もなかった幼弱な少年を手に入れ、王政復古のクーデターを断行した。
坂本龍馬、桂小五郎、西郷隆盛らの書簡では、この少年は「玉」と呼ばれていた。「ぎょく」であろうか、あるいは「たま」であろうか。「何とか玉を手に入れたい」「玉を奪われて残念…」「うまく玉を抱へた」…
ちなみに後年のことだが、明治帝は大人になっても世事にあまり関心も興味も示さなかったため、伊藤博文や山県有朋に随分叱られている。山県に至っては「誰に担がれていると思ってるんだ」というような意味のことを言って叱っている。明治帝が横須賀の観艦式を嫌がったときである。
明治以降の天皇の存在形式は、それまでとは全く異なり、政治的意味が最重要かつ強大となった「近代天皇制」であり、その後の徹底した教育によって刷り込まれ作られたものである。村上重良によれば、天皇が執り行う祭祀の大半は明治以後に作られたものである。ただし新嘗祭は飛鳥時代から執り行われ、一時途絶え、元禄時代に復活した。多くの祭祀は天皇の権威、威厳を高めるため、明治以降に創作、演出されたのである。
ちなみに幕末の頃、日本列島に暮らす人々で帝(お天子様、天皇)の存在を知っていたのは15%の武士、神官、僧侶、学者、名主、裕福な商人等の知識階層と、京の御所の周辺の人々に過ぎなかった。85%の人々は知らなかったと言われている。明治政府は全国へ御行幸を繰り返し、神の子孫である「お天子様」の存在を知らしめる必要があったのである。

ハーンこと小泉八雲が見た日本国民の天皇への畏敬、尊崇は、二種あるのだ。一つはこの明治以降の教育が刷り込んだものである。彼が出征にあたって訪ねてきた教え子から聞いた天皇への想いは、こうしたものであろう。
もう一つは、宗教的伝統の核心となる神道の自然崇拝と、祖先尊崇と祖先祭祀であり、古くからその中心に重なり占める存在、皇祖皇霊なのである。
マッカーサーの副官フェラーズ准将は、ハーンの著作からこの天皇の存続と活用こそが、日本の戦後統治の成否を分けることを確信したのだろう。

さて、選挙における第一党(与党)と第二党以下(野党)との総得票数の差が、さほどの開きがないにも関わらず、議席数に大きな開きができる悪しき現行選挙制度が、民意による安定多数という権力の根拠を与えてしまう。それが暴走を始めたとき、その暴走をどうやったら止めることができるのだろうか。
天皇は儀典や認証、慰問等以外の政治活動に全く関与できないし、しない。口出しも発言も一切なされない。しかし多くの想いを抱いておられるだろう。
その想いが、つい独り言として口の端に出ることもあるのではなかろうか。
皇居内で独り言を呟くこともあるのではなかろうか。
ツイ呟く。ツイ言った。ツイッターである。天皇も皇后もツイッターを始められ、そのつどのお気持ちを呟いていただいてはどうだろう。
「戦後70年、我が国は痛切な反省のもと、平和の道を歩んでまいりました。しかしこの頃、懸念を感ぜざるを得ません」
「ひとりの戦死者も出さなかったこの70年の歩みは、世界のひとびとに認められているのではないかと思いますが、近頃は憂慮しております」
「福島の多くの皆さんが、今も遠く故郷を離れて暮らさざるを得ないことを思うと心が痛みます。原発の再稼働も進められていますが、まことに複雑な気持ちになります」…
誰に向かって言うのでもない、独り言である。新保守主義を標榜する方たちや与党の方たちの耳に入ることなど全く念頭にはない、独り言なのである。
暴走を止めることができるのは、お二人がツイ呟くことではなかろうかと、「不敬」な妄想を抱いてしまう。