漂泊の人

私はヘビが嫌いである。特に毒蛇は大嫌いだ。しかし以前はよく百貨店で「世界のヘビ展」「世界の毒ヘビ展」「大爬虫類展」などという、とんでもないイベントが行われていた。後に私はハキイ(波木井)研究所というイベント会社と知り合ったが、この会社が「ヘビ展」をやっていたのである。

「男はつらいよ」のフーテンの寅こと車寅次郎は、実は奄美大島でハブに咬まれて死んだのである。
渥美清はTBSで青島幸男(後に中村嘉葎雄も加わる)と交互に「泣いてたまるか」に主演し当たりをとった。そのとき知り合った松竹の山田洋次監督と、フジテレビのドラマ「男はつらいよ」をやることになった。
これは昭和43年、44年に放映され、非常に評判が良く、渥美清は絶好調であった。しかしその最終回、山田洋次は寅次郎をハブに咬まれて死ぬという形で終わらせたのである。寅次郎の舎弟分の裕次郎(佐藤蛾次郎)が、柴又の寅次郎の妹さくら(長山洋子)にその死を伝えに帰るのである。
その最終回は非常に評判が悪く、フジテレビには抗議の電話や手紙が殺到したらしい。山田洋次は寅次郎を映画で再登場させることにした。それは大ヒットしシリーズ化された。しかし今度はどう終わらせるか迷ううちに48作まで続き、この記録的シリーズは渥美清の死で終わった。
車寅次郎は放浪と漂泊の人であった。
ここまでが落語で言う枕である。

明治二十六年(1893年)五月、青森県弘前城下に暮らしていた笹森儀助は、南西諸島(沖縄や奄美)の探検の旅に出るにあたり、家族と別れの水盃を交わした。
当時の南西諸島は疫病(マラリア)や毒蛇(ハブ)という危険な島なのであった。ハブに咬まれ無事に戻れないことも考えられた。彼は家人に自分の遺体を東京帝国大学病院に、医学研究のために献体するようにと言った。ハブに咬まれて運良く助かっても、体が不自由になることも考えられた。
笹森儀助は、間もなく五十歳になろうとしていた。痩躯で、顎髭にも白いものが目立っていた。
笹森儀助は弘化二年(1845年)に弘前藩士の子として生まれた。藩校の稽古館に学び青森県庁に勤め、中津軽郡長も務めた。その頃の笹森の言葉である。「私が役人となってつとめているとき、心をくだいていることは、ただ民権を守るという一点だけである。」
しかし笹森の民権は、当時流行の自由民権ではなかった。彼はむしろ自由民権運動には反対の保守派であった。笹森の民権は人間の土地の生活に根ざした「民権」なのである。例えば「入会山」の権利という民権である。
明治十四年に彼は突然辞職した。笹森は当時の青森県令が、自由民権運動の団体と対立する笹森らの保守派団体を合同させようとしたことに、大反発したのであった。彼はともに辞職した者たちと共に、牧場を運営する農牧社の経営にあたり、後に社長となった。
しかし彼は「貧旅行」と称する旅に出た。旅費は十年間にわたり、十銭、二十銭と蓄えたものだという。
各地の生産力やその生活をその目で調べ、地租軽減地価修正論を実地に確認しようというのである。また彼は近畿地方や九州まで歩き回り、各地の神社や古墳まで調べた。もともと彼は経営者というより、その本質は民俗学者的な冒険の人だったのだろう。笹森は「貧旅行記」を残した。

笹森は農牧社の社長を辞し、陸羯南の助言を受けて軍艦磐城に乗り込み、千島列島の探検に出た。先行していた片岡利和探検隊と合流し、択捉島、占守島、幌筵島などの風土を探検した。相当危険に満ちた旅だったらしい。彼は土地の古老などに話を聞き、それらを「千島探検」にまとめた。彼の関心は「北辺の防備」だったのである。
笹森は井上馨に面会した折、日本の製糖事業振興のために南島を調べて欲しいと頼まれた。彼は了承した。笹森の関心は「南の島々の国防上の価値」であった。彼より先に沖縄諸島を探検していた植物学者の田代安定の話を聞きに行った。そのとき田代はマラリアに罹患してからいまだ回復せず、危険な状態が続いていたのである。笹森は死を覚悟した。彼は再び陸羯南の助言を受けた。

明治十二年、沖縄は琉球処分を受けて日本の版図に組み入れられていた。琉球が独立国だった頃から中国との交易を行ってきた。経済、文化と、心情的には日本より清国に親しみを持っていた。特に宮古郡島、八重山群島の人々は、寛永十四年からずっと人頭税という島津藩の悪法に、二百数十年苦しめられてきたのである。
笹森儀助は宮古島で、住民たちの役人たちへの憎悪を目の当たりにした。住民たちの暮らしぶりは悲惨であった。まるで、懲役人、奴隷であった。八重山諸島はマラリアが猖獗をきわめていた。彼が目にしたのは死滅した廃屋となった村々であった。西表島もマラリアの島であった。

笹森は東京に帰還し「南嶋探検」を著し、ここで惨状の主たる要因を人頭税として、政府の沖縄行政の無策、無能を批判し、その廃止を訴えた。彼は数字を挙げて例証している。この書が人頭税廃止運動につながり、この非道の悪法は明治三十六年になって廃止された。
笹森は南嶋から帰った翌年、奄美大島の役人の頭「大島島司(おおしまとうじ)」に任命され、三番目の娘を伴って赴任した。自分が死んだ際、娘に遺骨を持って帰ってもらおうという配慮からであった。何と言ってもハブの島である。
奄美大島はもともと琉球国の一部であったが、慶長年間に島津藩に奪われ、明治後は鹿児島県に含まれた。島には鹿児島の商人が入り込み、島民に対してかなり横暴であった。笹森は常に島民の側に立ったため、この鹿児島人たちに憎悪され続けた。笹森はこの間、視察先で暴風雨に曝され、また病にも倒れている。大島島司を四年間務めた後、辞めてしまった。
その後また軍艦に乗り込み、朝鮮の海岸沿いを踏査し、さらにシベリアを旅行しハバロスクに行った。さらにロシア、中国、朝鮮の国境を調べて歩いた。
日露戦争の前である。あの軍事探偵・石光真清が、ニコリスク近くの汽車の中で笹森儀助に出会ったことを記録している。放浪と漂泊の人、石光真清は、笹森儀助の異風をこう活写した。
「私はその風体を見て、おもわず微笑した。ところどころ破れて色の冷めたフロックコートに、凹凸のくずれかかった山高帽をかぶり、腰にはズタ袋をぶらさげ、いま一つ大きな袋を肩からななめにさげていた。しましまのズボンにはカーキ色のゲートルを巻き、袋の重みを杖に支えて入ってきたのである。」

帰国後の彼は第二代の青森市長になり、銀行の監査役にもなった。また私立青森商業補修夜学校を設立し、校長にも就任した。しかしその晩年は不遇であったという。彼は寡黙な人で、ほとんど自分のことを語らなかったらしい。その後、彼の存在も業績も埋もれ、地元の青森でも長らく忘れられた人となった。
笹森儀助は放浪と漂泊の人であった。