古代妄想

内外を問わず、古代史にはあまり興味が無い。しかし妄想癖があり、書物や人の話にも触発され、ボーっと歩きながらあれこれと想うことがある。誇大妄想ならぬ古代妄想である。
古代、中国は自らを華と言い、世界の中心だとした。朝鮮の人々もそれに従った。彼等からすれば「まつろはぬ」人々や国は夷狄である。夷も狄も異民族を指し、狄にはわざわざ「犭(けものへん)」をあてた。当時の彼等には海の向こうの列島に棲まう人々は文明のない夷狄である。そこには幾つかの国があることも分かった。その内のひとつにヒミコと呼ばれる巫女が治める国があるという。彼等は「ヒ」にわざわざ「卑」の字をあてた。またその国名をヤマタイと聞き、「ヤ」に「邪」の字をあて「邪馬台国」と呼んだ。もうひとつの国、ヌには「奴」の字をあて「奴国」と呼んだ。古代「奴」は賤民、奴婢を指した。卑しみ、馬鹿にしたのである。
さらにその列島の人々を「倭人」と呼んだ。江戸前期の儒学者・木下順庵は「倭」には「小柄な」「矮」の意があるとした。姿勢が悪い矮躯、チビの意である。ちなみに木下順庵の学燈から「木門十哲」と呼ばれる優れた人々が出ている。新井白石、室鳩巣らである。

朝鮮半島の人々にはもう一つの想いがあった。彼等の地理的視点からすると、海の向こうの倭人の棲まう地は「日出づる処」なのである。古代、太陽は神聖である。倭国は日出づる国でもあったのだ。それは憧れにもなる。やがて彼等は日出づる処に渡る。
渡来にはいくつもの理由がある。一つは単なる漂流、漂着である。一つは日出づる処への憧れ、冒険、フロンティアである。一つは政治的理由、亡命、難民である。一つは経済的理由で、鉄を作るためである。鉄づくりには砂鉄と大量の薪炭がいる。朝鮮半島の山々はたちまち伐り尽くされたが、その再生は遅い。日本の山々は樹々が叢生し、温暖なため、その回復もずっと早いのである。奥出雲、中国地方に「たたら製鉄」の跡が残る。鉄づくりの「たたら場」は森を伐り、砂鉄を採るための「かんな流し」で環境を破壊しながら、山から山へと移動していくのである。これが「もののけ姫」の舞台になった。

ヤマタイが転訛してヤマトになったのかも知れない。そのヤマトと呼ばれる地に統一国家ができると、「倭」を「やまと」と読んだ。さらに「やまと」を「大倭」と記した。小さくはない、大きい、という心意気であろう。「古事記」は「倭」と表記している。
しかし「倭」にせよ「大倭」にせよ、「倭」の字を厭う知識人もいた。彼等は「大倭(だいわ)」を「大和(だいわ)」と書き替えて記し、「大和(やまと)」と読んだのである。さらに「日出づる処」日の本であるところから、「大和(やまと)」を「日本」と書き替え、これを「やまと」と読み替えた。
「日本書紀」は「大日本(おおやまと)豊秋津州(しま)」とし、「日本、此をば耶麻騰(やまと)という。下(しも)皆此に效(なら)え」としている。大号令である。山上憶良や大伴旅人、奈良時代の越前守・笠金村らは「日本(やまと)」に拘った。
越(こし)の海の 手結(たゆひ)が浦を旅にして
見ればともしみ 日本(やまと)思(しの)ひつ
万葉集にある笠金村の歌である。手結が浦は越(越前)敦賀の、現在の田結の海岸である。大伴旅人も歌う。
日本道(やまとぢ)の 吉備の児島を過ぎて行かば
筑紫の子嶋 思ほえむかも
日本道(やまとぢ)は筑紫から大和へ通ずる、当時の街道を指したのだろう。現在の国道一号のようなものである。
遣唐使として御津(みつ)=大伴氏の所領であった難波の津から出港して唐に渡った山上憶良は、その帰国に際し、仲間たちの顔を見回しながら歌ったのである。
いざ子ども 早く日本(やまと)へ 大伴の
御津の浜松 待ち恋ひぬらむ

万世一系、皇統は連綿と続いてきたわけではない、というのが現代の考古学と歴史学の通説である。神武からどの天皇までが神話で、どこからが史実の人であったのか。津田左右吉は七代の開化までを架空とした。考古学者と歴史学者の間には三王朝交替説がある。うち二つは十代の崇神から仲哀までの崇神王朝(三輪王朝)と、十五代応神から武烈までの応神王朝(応神と十六代仁徳は同一人物説もあり、仁徳王朝とも言われる)である。彼等の宮居と御陵が河内に多かったことから河内王朝とも呼ばれる。
崇神王朝と応神王朝の間の皇統は、繋がっていたのか切れたのか…。二十一代雄略天皇はサディスティックな殺戮を繰り返した極悪天皇とされる。二十五代武烈天皇もまた殺戮を繰り返した悪逆の天皇とされた。その武烈天皇が崩じて皇統が途絶えたのである。
新王朝が成立した。新王朝とは越(こし)から来た二十六代継体天皇からである。…南北朝の正閏問題はあるにせよ、この継体天皇から現在の天皇家へと続いているのである。天皇家は越から来た、と言えなくもない。

…武烈天皇の崩御後、大連(おおむらじ)・大伴金村、大連・物部麁鹿火(もののべのあらかい)と許勢男人(こせのおひと)大臣らは合議を重ねた。武烈天皇が極悪非道であったとしても、古今、禍いは天皇(大王)が存在しないことによって起こるのである。このままでは天下が乱れてしまう。…丹波国に仲哀天皇の五世孫・倭彦王(やまとひこおう)が住んでいるが、彼を新天皇として迎え入れてはどうだろう。…そこで兵を調えて倭彦王を訪ねると、大勢の兵の姿に驚き怯えて、山谷に隠れ行方知れずとなってしまった。
大伴金村らは再び合議を重ね、越の男大迹王(おおどのおおきみ)を天皇として迎え入れるのはどうであろうと諮った。これに大連・物部麁鹿火と許勢男人大臣も賛成した。男大迹王は応神天皇の五世孫の王位継承資格者であり、しかも人格者である。…と言うのである。
応神天皇の五世孫という由緒は、この時代、どうとでも言えるかなり怪しいものであり、後から作られた系譜かも知れない。また先述の、兵を見て山に逃げたという倭彦王も、作り話だと言われている。そもそも仲哀天皇の実在性も薄いと言われているのである。
倭彦王の記述は、男大迹王=継体天皇の正統性や、武烈天皇とは異なり天皇にふさわしい人格者であることを際立たせるための「日本書紀」の作為とも窺える。
またこうも言える。○○天皇の○世孫は数多く出て、傍系王族として王位の継承資格も失い、代を経るごとにその血統は王統から薄れて、中央政権からも弾かれ、地下(ぢげ)の地方豪族となり、土豪化していったのであろう。後世、源氏や平氏もこれらの中から出たに違いない。

古代、今の福井県あたりから出羽あたりまでの、長大な日本海沿いの崖と砂丘と潟と沼の地が、越と呼ばれた。越は高志、古志とも書かれたが、あの独学の天才「大日本地名辞書」の吉田東伍博士によると、本来は蝦夷語で、一種族名と彼等が住む地域名を指したものだったらしい。越はその後の七世紀半ばに、越前、越中、越後に分けられている。
ちなみに「琵琶湖周航の歌」の原曲作曲者・吉田千秋は、偉大な歴史地理学者・吉田東伍の二男であるが、これは別の機会の物語としたい。
男大迹王(おおどのおおきみ)は、またの名を彦太尊(ひこふとのみこと)と言い、越前(現在の福井県)の三国に住んでいた。男大迹王はその地の豪族だったのである。彼は九頭竜川、足羽(あすわ)川、日野川の氾濫域を治水し、開墾して稲作を広め、豊かで強大な勢力を持っていたと思われる。
彼の父は琵琶湖付近の土豪で彦主人王(ひこうしおう)という。越前の御国あるいは水豊かな水国(三国)の土豪の娘・振媛(ふりひめ)が大そう美しいと聞き及び、これを娶り男子を得た。しかし彦主人王は早々に死んでしまい、振媛は幼児を連れて三国の実家に帰り、そこで子を育てた。
「日本書紀」によれば「三国の坂中井」であるという。三国は湊を持ち、韓(から)国や韃靼にも通じ、それらとの交易や漂着もあったと思われる。当時の長大な日本海沿いの越の中では、後の越前は最も古くから開け、その周辺に多くの古墳群を残している。金沢が開けるのはずっと後の古墳後期のことである。
現在の福井、鯖江、武生の西方に低い山々の起伏と小盆地が連なり、その裾を越前岬、越前町として日本海に落としている。この山々を丹生(にゆう)山地という。丹生とは砂鉄を含んだ赤土である。ここに鉄づくりの大集団が移り住み、樹を伐り出し、炭を焼き、かんな流しで砂鉄を採り、たたら炉を作った。その技術集団や、付随する作業集団のために、稲作による食糧が増産され、食器の須恵器を焼く者も出て、後に古越前と呼ばれる焼き物が産まれた。越の地、越前は富強だったのである。鉄づくりは越前の稲作を促し、また窯業も促したものと思われる。

男大迹王は慎重、重厚な人だったと思われる。大伴金村、物部麁鹿火、許勢男人らの要請を、熟慮の上、受け入れた。男大迹王が五十七歳のときである。彼は河内の樟葉宮(くすはのみや)に至って即位した。即位後、二十四代仁賢天皇の娘で、武烈天皇の姉にあたる手白髪皇女(たしらかのひめみこ)を妃にした。約千五百年も前のことである。
彼はすぐには大和に入らなかった。彼は三度宮居を遷した。慎重だったとも言えるが、大和とその周辺には多くの抵抗勢力もあったのだろう。これらを説得し平定するのに二十年の年月をかけ、ついに大和に入り、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に遷都した。大和入りした時点で、すでに七十七歳ということになる。
この継体天皇の大和入りは、神武天皇の畿内入りを彷彿とさせる、と指摘する歴史学者も多い。継体天皇の逸話が神武天皇の物語の一つになったのかも知れない。

ちなみに、男大迹王がまだ越前にいたほぼ千五百年前、岡太(おかもと)川の上流の宮が谷の里に、ある日美しい姫が現れて、里人たちに清らかな谷水で紙を漉く技を伝えたという。耕地の少ない山里でも、紙を漉けば生計も立とうと言うのである。里人たちが彼女の名を尋ねると「川上に住む者」と応えて消えたという。里人たちはこの姫を「川上御前」と崇め、紙祖神として岡太神社を建てて祀った。日本で、紙の祖神はこの越前にしかいない。越前和紙の発祥譚である。福井に三俣駅や「みつまた山」があるのは、川や山が三つ叉に別れているためか、あるいは和紙の原料「みつまた」が豊富だったのだろうか…。
奈良時代の官庁はまだ木簡や竹簡を使用していた頃である。それより早い推古帝の時代に、高麗王の命で日本に来た僧の曇徴が、紙を伝えたとされている。曇徴は紙と墨の作り方や写経を僧侶たちに教えたという。川上御前が伝えたという越前和紙は、それよりもずっと早くに作られ始めたことになる。
平安時代、紙は中務省(なかつかさしょう)図書寮(ずしょりょう)の扱うところとなり、図書寮は越(越前)、美濃、出雲、播磨などに和紙作りをさせ、これを指導した。越の和紙は奉書用として重用され、同地の紙の王とも称される鳥子(とりのこ)紙とともに、最も高級な和紙とされた。平安期の上皇の院宣にも使用され、後に室町幕府は越前紙を将軍の御教書(みきょうしょ)や公文書用としたことから、越前奉書として有名になった。越前和紙は福井藩の藩札にも使われ、また明治に入ってからも紙幣に使用されたのである。
古代妄想から、話があちこちあらぬ方向へ飛ぶことは、やはり誇大妄想なのかも知れない。