掌説うためいろ 母

碧川かたは、その半生を女性の参政権、公民権、男女平等改革の婦人運動に捧げ、昭和三十七年一月の厳寒の日、九十二歳で亡くなった。
彼女の前夫の子・操が、
「今夜、お母さんの傍に寝させて欲しい」
と碧川家に懇願した。彼は幼くして母かたと離別していたため、母の添い寝に特別な想いを抱き続けていたのだろう。彼は最期にその母の隣で眠りたかったのだ。碧川家はその心情を汲んだ。
その晩七十二歳になる男の子は、九十二歳で永遠の眠りについた母の傍らに、甘えるように白髪頭を並べた。

かたは明治二年、鳥取の池田藩家老の和田家に生まれた。幕末の混乱期、父の邦之助信且は心痛から重い心疾に陥って廃人となり、彼女は家臣の堀正の養女となった。堀正は尊皇の志士で、上野戦争の際に寛永寺の伽藍に放火した男である。その後は典獄に勤めた。かたは非常に聡明な娘で、何度か飛び級をした。養父の堀正は転勤が多かった。播磨の龍野勤務から、他に転任する際、まだ就学中のかたを、龍野の円覚寺に預けた。住職夫妻は聡明な彼女を可愛がり、漢学や行儀作法などを教え込んだ。花嫁修業である。かたも十八歳になっていた。
やがて彼女は九十四銀行頭取で龍野町長の三木制(すさむ)の目にとまり、たいそう気に入られた。制はぜひ倅の嫁にと懇望し、かた十九歳の時、制の二男・節次郎に嫁した。当時節次郎は九十四銀行に勤務していた。ところが彼は放浪癖があり、大酒飲みで品行悪しく、結婚生活はひどいものであった。翌年長男の操が誕生したが、節次郎の不行状は改まらず、気丈なかたも苦労の日々を過ごした。
かたは操が幼稚園に入る際、幼い操にひとりで願書を出しに行かせた。独歩自立の教育である。やがて次男の勉が誕生したが、夫は神戸や大阪で飲み歩き、その身持ちの悪さはいっこうに改まらなかった。
舅の制は意を決し、かたに離縁をすすめた。
「誠に相すまん。あんたは若い、やり直しもきく。操は私たちが引き取り責任をもって育てる。勉は生まれたばかりだから、あんたが育てなさい。この後の子育ても大変だろう、あんたにやりたいこともあるだろう。これからも私たちができるだけの支援はしよう。本当にすまん、許してくれ」
と、制はかたに深々と頭を下げた。かたは操と三木家に強い未練を抱きながら離縁に応じた。
操が学校に行っているうちに勉を抱いて家を出て、人力車で鳥取の実家に向かった。播磨から鳥取に行くには因幡街道が使われていた。釜坂峠を越え、大原、西粟倉村を経て、険しい志戸坂峠を越えねばならない。牛馬も泣くという泣き地蔵があり、三十三曲がり、荷馬も引き返すという駒帰坂の難所を下り、智頭から鳥取の城下に入るのである。峠の泣き地蔵にさしかかった時、腕の中で勉がぐずって泣きやまなかった。あやしながら、かたは操を思って泣いた。操はまだ六歳なのである。

かたは東京勤めの養父の元に行くことになった。和田家の旧家臣が乳飲み子を抱えた彼女を心配し、ちょうど東京専門学校入学のため上京する十七歳の少年に、
「和田のお嬢さんを送ってやってくれ」
と依頼した。少年は米子裁判所長の碧川真澄の二男、碧川企救男である。
かたは看護婦を目指し、東京帝国大学の看病法講習科に入学した。昼は患者に付き添い、夜間学ぶのである。彼女は昼休みになると養父母の家に走り、勉に乳を与えた。これがどれほど大変なことかは想像に余りある。やがて三木家の方から、勉も引き取りたいと言ってきた。かたの養成期間は二ケ年である。
彼女は再び泣く泣く幼子を手放した。かたはこれを生涯悔いた。悲しみと苦しみから、かたは弓町本郷教会の海老名弾正の元で受洗した。
三木家に引き取られた勉は身体が弱かった。後の大正七年、勉は二十四歳の若さで亡くなったが、その報に接したかたは、赤ちゃんの時にもっと乳を飲ませてあげればよかったと言って泣いた。
かたは養成所を修了後、看護婦を五年務めた。かたに官費でドイツ留学の話が持ち上がった時、北海道にいた碧川企救男が求婚した。かたは八歳年下の企救男の求愛を受け入れ、北海道に渡った。かた三十三歳の時である。この時、龍野の操は早熟な少年に育っていた。十三歳である。

ある日、操が学校から帰ると、出迎えてくれたのは母ではなく祖母のトシであった。祖母は男衆や女子衆に荷造りや運び出しの指示をしながら、操を抱き寄せ、
「お爺様の家に行きますよ」
と言った。操の前から母と弟が消えたのだ。
操は祖父母の元に引き取られた。祖父の制は寡黙な人であったが慈愛深く、操に「大学」の素読をさせた。制が幼い操に教え込んだのは「仁誠」であった。祖母のトシも操を不憫に思い、たいそう可愛がった。しかし操にとってトシは母の代わりにならなかった。
操のために姐やが雇われた。あどけなさが残る赤い頬をした明るい少女は、淋しげな操を母代わりとなって世話をした。彼女は操をたいそう可愛がった。しかし姐やも母の代わりにならなかった。操もその優しい姐やが大好きになったが、姿を消した母への思慕は募るばかりだった。

やがて三木家に赤ん坊の勉が戻って来た。操は母の姿を探したが、その姿はどこにも見当たらなかった。姐やは勉をおんぶして、操と遊んだ。操は姐やと背に負ぶわれた弟を見て、自分も母にあのように背負われたのだろうかと、その朧気な暗い記憶を手繰った。
いつしかその姐やも嫁して行った。

夕焼 小焼の 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

十五で姐やは 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた

操は早熟な少年だった。おそらく、母かたの独歩自立の教育と、突然の離別と孤独が、少年を思索的にし、早熟にしたものであろう。操が十歳のとき祖母のトシが亡くなった。彼は人の死についても何事かを想うようになった。
操は十三歳で自ら露風と号し詩作に熱中した。十七歳で処女詩集を出し、上京した。この頃、定収もなく生活苦にあえいだ露風は、小樽に暮らす生母のかたに泣き言の手紙を出した。
かたの生活も厳しかった。かたは「汝の頬を当てよ 妾はここにキスせり」と返事をしたためた。露風はその手紙を手に大声で泣いた。母の柔らかで温かい唇の触感を、はっきりと頬に感じたのだ。
ほどなく露風は受洗してクリスチャンとなった。二十歳でその生涯の代表作となる「廃園」を出版し、野口雨情らと早稲田詩社を、西条八十や山田耕筰らと未来社を結成した。露風は北原白秋と共に詩壇の寵児となり、白露時代と評されるようになった。

さて、碧川企救男はかたと結婚後、小樽新聞に勤めた。結婚翌年、二人の間に長男の道夫を授かっている。さらに二年後、長女の澄が生まれた。澄は碧川の本家に子がなかったことから、すぐに養子に出された。かたは幼い操と別れ、勉を手放し、また初めての女の子を生後二ヶ月で手放さざるをえなかったのである。あらためて日本の家制度と婦人の力の弱さを嘆くかたであった。
この小樽時代、小樽日報には石川啄木がおり、相見知っていたようである。また札幌には野口雨情もいた。ちなみに小樽新聞には宮原晃一郎という記者もいた。唱歌「われは海の子」の作詞者である。後年、宮原は「赤い鳥」にたくさんの童話を書き、翻訳や北欧文学の研究者として活躍している。

明治四十一年元旦の読売新聞に企救男の小説が載った。懸賞小説の一等に選ばれたのである。賞金は二十円という大金だったという。
その一月初旬、東京社会新聞の西川光二郎と演歌師の添田唖蝉坊が遊説のため小樽にやって来た。彼らは昨年の十二月から東北の各地と、函館、森村、倶知安と遊説の旅を続けてきた。有志が声を掛け合い、どの会場も満員になった。大火後のバラック会場だった函館では隙間から雪が吹き込んだが、会場は熱気に溢れた。
その日は小樽も大雪で、のんのんと雪が降り続けたにもかかわらず、皆わら靴履きで集まり、会場は立錐の余地もない盛況となった。この会場に碧川企救男とかた夫妻も、同僚の宮原晃一郎も、小樽日報の石川啄木もいた。おそらく啄木の同僚の鈴木志郎もいたことだろう。
唖蝉坊は巧みに会場を湧かせ、歌と話に聴衆を引き込んだ。西川の話は人々に深い感銘を与えた。演説会後、碧川夫妻は取材を兼ねて西川らと語り合った。夫妻は西川らの社会主義と社会改良や婦人の参政権などの話に強く共鳴した。青白い顔に眼鏡をかけた小柄な若僧が横から口を挟み、西川に名刺を突き出した。啄木である。この少し生意気な青年は、やや甲高い声でよく喋る男だった。この青年も西川の話に心を揺さぶられていたのである。
札幌も大雪だった。人力車は全て車輪を外し、人力橇となっていた。西川と唖蝉坊が札幌に移動したおり、企救男とかたも同行した。この会場では企救男も演壇に立った。演説会後、社会主義というものに強い関心を抱いた北鳴新報の野口英吉(雨情)という記者や、西川の札幌農学校時代の友人たちも加わり、酒を酌み交わしながら遅くまで語り合った。その時かたは唖蝉坊にそっと頼み事をした。
「碧川に、東京に出るよう勧めてくださりませんか」
おそらくかたは、懸賞小説で一等になるほどの企救男の才能を、東京で開かせたかったのであろう。そして、自分も東京で社会改良と婦人の権利運動がしたいと思ったにちがいない。いや、かたは一家での上京を決意していたのである。

企救男に上京を促したのは唖蝉坊ではなかった。徳富蘇峰が上京を勧める手紙を企救男に送ったのである。かたは企救男に
「よい機会です。上京しましょう」
と強く促した。明治四十一年の二月のことである。一家は上京し、企救男は報知新聞の社会部に勤めることになった。
東京に落ち着いたかたのもとに露風が十三歳になった弟の勉を伴って会いに来た。あの操が、あの勉がと、かたは二人を見つめ
「まあ、まあ…」
と言ったのち、しばらく言葉が出なかった。
「お二人とも、ずいぶん、本当に、大きくなって…ご立派になられて…」
と言うと、かたは深い溜息をつき、再び二人を代わる代わる見つめた。
露風と勉も、容易に言葉が出なかった。露風が
「お母さんも、お元気そうで、何よりです」
と、かたい挨拶をやっと言った。あんなに豊穣な言葉を持つ露風なのに、あんなに会いたいと想っていた母なのに、あんなに慕っていた母なのに、その母を前にすると、彼の舌はこわばってしまったのだ。勉は母を前にしてはにかんだ。
かたは二人に交互に身体のことや今の暮らし向きのことを尋ねた。あまり丈夫でないという勉の健康を気遣った。そして露風に、あなたの詩を時々読んでいると言って何度も頷いた。こうしてこの母子は訥々と語り合った。
二人が帰った後、かたはいつまでも涙ぐんだ。
「あんなに大きくなって…あんなに立派になって…」

かたはキリスト教婦人矯風会の一員となり、婦人の参政権運動や廃娼運動、禁酒運動に活躍するようになった。かたは東京婦人禁酒会を設立し、その会長を務めた。彼女の熱心な禁酒運動には、前夫の節次郎への想いがあったのだろう。大正九年の秋、その節次郎が神戸で死んだと露風から聞いた。かたは深い溜息をついた。節次郎は死ぬまで放浪と放蕩の人であった。
昭和に入ると、かたは婦人擁護会を結成し、婦人開放運動を展開した。機関誌「女権」の創刊号には露風も寄稿している。その後も露風は度々「女権」に執筆した。
今や知る人ぞ知る碧川かたは、婦人運動の先駆者であり、高齢でそこひを患ってほとんど目が見えなくなるまで、第一線で熱心に活動し続けた。

企救男とかたの子どもたちのことである。道夫は映画カメラマンとなり「東京オリンピック」「地獄門」「飢餓海峡」等を撮った。三女の芳子は映画監督と結婚した。「飢餓海峡」の監督・内田吐夢である。末娘の清子は母と同じ看護婦の道を選び、後に重症心身障害児施設・島田療育園の総婦長となった。

夕焼 小焼の 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

山の畑の 桑の実を
小篭に摘んだは まぼろしか

十五で姐やは 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた

夕焼け 小やけの 赤とんぼ
とまっているよ 竿のさき

最晩年、かたはこんな歌を詠んだ。

よき子供生まるるといいし祖父君に聞かせたく思う赤とんぼのうた

祖父君とは三木制(すさむ)のことである。よき子供とは、操・露風のことである。

あたたかき心を持てるたらちねの母にはまこと力ありけり

露風が亡くなった母を偲んで詠んだ歌である。