掌説うためいろ ハレー彗星余燼

明治四十二年、不安な噂が広がりつつあった。フランスの高名な天文学者カミーユ・フレンマリオン博士によれば、来年の五月下旬にさしかかる頃、地球はハレー彗星の尾の中に包まれ、地上の生命は全て死滅するというのである。ハレー彗星の長い尾の正体は猛毒のシアン化合物のガスなのだ。彗星が太陽面を通過する際、遠ざかる彗星の尾の中に地球が入り込むという説である。
人はいつの時代も人類滅亡話を好むものらしい。嫌な、苦しい浮世である。そんな世の中、自分だけではなく地球の全てが滅ぶというのが痛快なのだろう。ついに、「一九一〇年ハレー彗星墜つ」という噂も広がった。地球に彗星が墜ちるにせよ、シアンの猛毒ガスが覆うにせよ、日本ではその破滅の時が、「五月二十二日十一時二十二分」であるという具体的な日時まで流布されたのである。

明治四十三年五月二十二日は、何も起きなかった。しかし三日後の二十五日、近代天皇制の国家権力という猛毒が、日本中を震撼させ覆い尽くしたのである。
当初は信州明科爆裂弾製造事件であった。これを奇貨とした当局は、日をおかず大逆事件とし、幸徳秋水とその一味たちの一網打尽と抹殺を謀った。国家権力が社会主義運動、無政府主義運動、労働運動等の「好もしくない」主義思想の人間と組織の根絶やしを狙い、全国で一斉検挙に出た。
先ず宮下太吉、新村忠雄、古河力作、管野スガ(須賀子)、幸徳秋水、森近運平、大石誠之助、内山愚童、成石平四郎、高木顕明、松尾卯一太、坂本清馬、奥宮健之ら二十六人が次々に逮捕されたのに続き、日本中でおよそ八百人の検挙者が出た。この検挙者の中に竹久夢二もいた。

宮下は明科の蒸気機関や製材機などの機械工で、彼が爆裂弾を作り実験もしていた。新村は新宮の医師・大石誠之助の薬局で働いていた正義感の強い明朗快活な青年だった。古河は短躯ながら頑健、強固な意志を相貌に宿した無口な男で、滝野川の花圃で働く花卉職人だ。実際に天皇暗殺について具体的に話し合っていたのは宮下、古河、新村、そしてスガの四人である。
最初に宮下を秋水やスガに紹介したのは「大阪平民新聞」の森近で、彼はだいぶ後になって、四人が計画を立てていることを知ったに過ぎない。スガは、秋水が老母と暮らすため引退して土佐に帰ると洩らしていたので、彼を計画から外していた。
大逆の主要人物である宮下、新村、スガ、古河の四人以外の人々は、秋水等と親しい、談笑し家に一泊した、借りた本を返しに来て談笑した、薬研を貸した、以前家に泊めた、というだけの理由で逮捕され、後に刑死することになった。彼らは正義感が強く、社会主義や無政府主義に共鳴し、非戦と人間の自由平等を唱え、かつ社会改良や弱者救済の実践に奔走する人格者として、慕われていた者が少なくない。そうした医師や僧侶なども含まれていた。特筆すべきは大石誠之助である。彼は医師で、社会主義者で、クリスチャンであった。

大石誠之助は慶応二年、紀伊東牟婁郡新宮仲之町に代々学者や医師として続く名家に生まれた。同志社英学校、神田共立学校を中退後、ワシントン州の中学校、オレゴン州立大学医学科を出て、モントリオール大学で外科学を学んだ。帰国後の明治二十九年、新宮に開業した。
彼の医院は「払える人はお払いください」という医院だった。貧しい人から無理に金を取らなかった。優しく穏やかで明朗闊達、高潔、人に分け隔てなく、被差別部落の人々の医療や生活改善に意を注いだ。病気の年寄りや子どもは医院に来るのもしんどかろう、しかし病気は待ってくれないと、往診に力を注いだ。彼は「毒取る(ドクトル)」と呼ばれ慕われていた。
誠之助は明治三十二年、シンガポールに渡り病院で医師として働きながらマラリアと脚気を研究し、その後インドのポンペイ大学に伝染病の研究のため留学した。彼はインドで人間の尊厳、生得の権利について深く考えさせられ、より社会主義に共鳴して戻ってきた。
彼は友人の秋水に頼まれて、新村忠雄青年を医院に預かった。誠之助は秋水とも親しかったが、地元紀伊田辺の牟婁新報社長・主筆の毛利柴庵(さいあん)とも親しかった。
柴庵は十三歳で得度し、高野山大学林を首席で出た革新的仏教者であった。柴庵は足尾鉱毒事件の田中正造に強く共鳴した。非戦論と社会主義を支持した。柴庵が刑務所に収監されていた期間、編集長として招かれたのが管野スガである。一時、牟婁新報には荒畑寒村も席を置いた。
明治三十九年以降、柴庵は南方熊楠と共に宗教の自由と神社合祀問題、自然環境保護の論陣を張った。誠之助も彼らを強く支持していた。
また誠之助は与謝野鉄幹とも親しく、禄亭という号で雑俳の名手としても知られた。この大逆事件で、誠之助や秋水の弁護を平出修(ひらいでしゅう)に依頼したのは鉄幹である。平出は「明星」の若き同人であり、石川啄木の親友でもあった。
さて大石誠之助の甥(長兄・余平の長男)が、文化学院を創設した教育者・西村伊作である。伊作も大逆事件で拘留された。ちなみに誠之助の次兄・玉置酉久の妻の係累に山本七平がいる。ハレー彗星の尾の余燼は、実に長い。

誠之助は地元の名望家であるばかりでなく、中央でもその名を知られていた。
若き天才詩人・佐藤春夫は、当時慶応の学生であった。彼は明治二十五年、東牟婁郡新宮町に生まれた。父は医師の佐藤豊太郎で、代々続く医師の家である。
無論春夫は大石誠之助を知っており、大逆事件と彼の刑死に強い衝撃を受けていた。春夫は官権を意識して刑死者を愚者と韜晦した痛切な追悼詩、「愚者の死」を書いた。それは春夫が誠之助の死と大逆事件に触れた最後であった。
おそらく「愚者の死」を発表した前後から、彼の周囲に私服刑事の影がつきまとったのであろう。あるいは刑事から「お前は新宮の出らしいな。大石とはどういう付き合いかね?」と、尋ねられたのかも知れない。以後、春夫は政治向きのことや思想について語ること少なく、川と花と洋館と廃墟と路地と、異国と南国と支那を愛する、耽美的幻想の詩歌と小説を書き続けるのである。

永井荷風が慶応の教授時代のことである。明治四十四年の一月二十四日の朝、彼は偶然大逆事件の受刑者たちを乗せた馬車を目撃した。受刑者たちは刑場に向かったのだ。荷風は立ちすくんだまま馬車を見送り、無力感と無常観に打ちのめされていた。
彼はその後「花火」という小品を書き、偏奇館と名付けた麻布の洋館に住まい、奇行の目立つ風変わりな生活を送った。江戸情緒の残る隅田川界隈と、三味線の音の響く路地裏に遊び、紅灯の巷を彷徨い歩いた。政治批判めいた言辞も洩らさず、まるで社会の出来事に無関心を装った。その後の「断腸亭日乗」には世間の大ニュースがほんの一言二言触れられるばかりである。日本の近代化の軽躁さを侮蔑し、現実への憎悪、世事への嫌悪が、荷風を、三味線と川面に映じる月や、遊女たちとの戯れや、下町の路地裏と江戸趣味に向かわせたと言うしかない。彼はその美と嗜好に耽溺することにしたのである。それが荷風に於ける彗星の余燼だった。
谷崎潤一郎や芥川龍之介、江戸川乱歩等も同じだった。イデオロギー的傾向から遠く距離を置き、その美的嗜好と性向は、川への愛、江戸趣味と路地へのこだわり、異国への憧憬、屋根裏好き、洋館と人工的な庭と花への愛、廃墟と幻覚への嗜好、怪奇趣味、支那趣味、南方への憧れ、希薄な生活感…これらは彼らの生活と自己韜晦とフィクションに欠かせぬ道具立てになった。

大逆事件は、大阪に暮らしていた池田師範学校校長の東基吉と、その妻のくめを驚愕させ、激しく動揺させた。
くめは明治十年、新宮藩の家老だった由比甚五郎の長女として生まれた。十五歳で東京音楽学校に進みピアノと和声を学び、滝廉太郎に頼まれて、組曲「四季」の夏に当たる「納涼」の詞を書き、「鳩ぽっぽ」「お正月」の作詞も担当した。彼女は東京音楽学校の研究科に在籍のまま東京府高等女学校の教諭を務め、明治三十一年、二十一歳のとき、同じ新宮出身で東京女子高等師範学校教授の東基吉と結婚した。二人はもちろん大石誠之助をよく知っており、この同郷の先輩を畏敬していたのである。
「あの誠之助さんが…」
「あの大石先生が…」
「これは何かとんでもない間違いか、それとも何か大変なことが起こっているに違いない…」
何か漠然とした重苦しい不安である。闇夜の鵺(ぬえ)のようなものの存在が、肌をざわざわと粟立てさせる不安である。

明治四十三年の六月中旬、竹久夢二の家に二人の刑事が来た。彼らに両側から挟まれて引っ立てられて行く夢二を、他万喜(たまき)は幼児の虹之助を抱え、玄関前の道まで出て見送った。夢二は二十七歳である。
夢二と他万喜はすでに夫婦ではない。度重なる夢二の浮気が原因で喧嘩が絶えず、前年に協議離婚していた。この年、他万喜は虹之助にかこつけて再び同居していたのである。
夢二の惚れっぽさと浮気は病気のようなものである。愛憎のもつれから女に刃物を突きつけられたこともある。しかし気に入った娘がいると、横に他万喜がいても口説き始めるのだ。夢二はカサノヴァなのである。そのくせ夢二は嫉妬深かった。他万喜の浮気を疑い嫉妬した。実に勝手な男である。しかし他万喜は夢二が好きで、どうしても離れがたかったのだ。

他万喜は富山治安裁判所の判事だった岸六郎の二女で、金沢に生まれた。彼女が十八歳の時、東京美術学校出の高岡工芸学校絵画教師・堀内喜一と結婚した。一男一女を授かったが、夫は三十三歳で亡くなってしまう。他万喜はまだ二十四歳の若さである。堀内の実家が子どもたちを引き取り、彼女は家を出た。他万喜が堀内家に残した二人の幼い子どもたちの寂しさを想うと、実に切ないものがある。彼らは幸せになれたのだろうか…。
他万喜は上京し、四つ年上の兄・岸他丑(たちゅう)を頼った。他丑は麹町区の九段下飯田町で絵はがき発行販売の「つるや書房」を営んでいた。彼は早稲田鶴巻町に絵はがき屋の「つるや」を開き、他万喜に任せた。
十一月一日に開店し、その五日目に早稲田実業の学生・夢二が店を訪れた。夢二は色白で大きな眼をした他万喜に一目惚れした。他万喜は夢二より二歳年上である。夢二は毎日「つるや」に来た。自分が描いた絵はがきを他万喜に見せた。それを店で売って欲しいと言った。あなたを絵はがきにしたいと言った。僕のモデルになって欲しいと言った。他万喜はモデルになった。「夢二式美人」が生まれた。さらに僕と結婚して欲しいと言った。「はい」と言ってくれるまで毎日来ると言った。他万喜は「はい」と言った。翌年の一月二十四日に正式に結婚した。

夢二は警察でさんざん取り調べられた。
きさま幸徳一味の新聞や雑誌にコマ絵を描いているな、ということはお前も一味だな、違う? 何が違う、きさまは社会主義者じゃないのか、きさま髪が長いな、主義者にはそういう長髪が多いんだよ、岡栄次郎や荒畑との付き合いはいつからだ、幸徳一味との付き合いはいつからだ、管野スガを知っているな、知ってるだろ、赤旗事件で刑務所に入っているがお前と親しい荒畑勝三の女房だ、今は幸徳の女だがな、宮下太吉や古河力作と面識はあるか、新村忠雄と新宮の大石誠之助を知っているか、大阪の森近運平は知っているな、奴の雑誌にコマ絵を描いてるよな、千駄ヶ谷の幸徳の家に行ったことはあるか、一味の大逆の謀議を知っていたか、知らんはずはなかろう、大杉栄とは面識はあるか、堺や山川とはどんな話をした、石川は知っているな…三四郎だよ、当然知っているな、平民社の一味だものな、きさまも一味なんだろ、小川芋銭(うせん)も一味だな、ほれ一緒にコマ絵を描いてる芋銭だよ、きさまが知ってる一味の名前を教えてくれ、知らない? きさま洗いざらい吐かないと帰れないよ…。
夢二は二日留置場に泊まった。拘留が解かれるとき中年刑事の一人が
「おい、あんな可愛い女房と子どもを泣かせるなよ」
と言った。夢二はムッとしたまま無言で警察を出た。夢二の背後を目つきの悪い男が尾けはじめた。

夢二が神戸中学の頃、牛窓の父親が酒造業に失敗した。夢二も学校を中退し、一家は親戚のいる八幡に移った。巨大な製鉄所の建設が進んでおり、夢二はここで製図の筆工として働いた。彼はこの建設現場で貧しい日雇い労働者たちと社会の不合理、搾取を見た。
翌年家出をして上京、早稲田実業に入ったが、好きな絵ばかり描いていた。同級生に社会主義者を公言する岡栄次郎がいた。夢二は岡の影響を受けた。岡の友人で荒畑勝三(寒村)とも親しくなった。寒村と岡が雑司ヶ谷鬼子母神近くの夢二の下宿に転がり込んで、彼らは共同生活をした。
夢二は以前から、幸徳秋水や堺利彦、内村鑑三や石川三四郎らの非戦論に感銘を受けていた。やがて夢二は寒村の紹介で「平民新聞」「光」「直言」にコマ絵を描き始めた。絵は批判精神にみちた諷刺画である。
明治四十年一月二十四日の「平民新聞」に、夢二が結婚して牛込宮比町に新居を構えたと紹介記事が載った(それから四年後の一月二十四日は、秋水の命日となった)。夢二は「平民新聞」に幽冥路の筆名でコマ絵と川柳も発表した。
翌年に虹之助が生まれた。明治四十二年五月に他万喜と別れ、その師走に最初の「夢二画集 春の巻」を刊行した。「夢二画集」はよく売れた。
年が明けた明治四十三年早々に再び他万喜と同居した。そして五月にハレー彗星が夜空をよぎって大逆事件が世間を震撼させ、六月にエハガキ「夢二カード」の第一集が出て間もなく、彼は警察に引っ張られたわけである。

二階の窓から外を見ると、電柱の陰に刑事らしき男が張り込んでいる。夢二が出かけると、その男も尾いてくる。それがずっと続いた。夢二はうんざりした。ある日夢二は電柱の下に佇む男に近づき
「犬とはよく言ったものだ。電柱が大好きなんだな」
と毒づいた。男は凄い顔をして夢二を睨んだ。
「おゝ、きょーてー(恐い)」
と夢二は首をすくめた。
「きさまが幸徳一味だという疑いが晴れたわけではない。まだ逃亡している一味とツナギを付けるかも知れんからな」
と刑事は言った。
「らっしもねえ(バカな)」
と夢二は岡山弁で抗した。
夢二は社会主義に興味をなくし、距離を置きはじめた。コマ絵を描いただけでこんな目に遭う。実に剣呑ではないか。彼は政治向きの話をいっさい口に出さなくなった。梅雨時に加え、あの刑事たちの張り込みと尾行は鬱陶しい。

梅雨が明けた。夢二は、気分転換に避暑に出かけることにした。そこまでは尾行はつくまい。夢二は他万喜と虹之助を連れて銚子に向かった。先ず霊岸島から船に乗り、内房の鋸山・保田の湊に着く。そこから安房小湊、九十九里浜、屏風ヶ浦、銚子まで宿泊しながら、徒歩と荷馬車に便乗した旅程である。
銚子の海鹿(あしか)島は明治末頃までアシカとトドが棲息していた。大正に激減し、昭和にはその姿が見られなくなった。夢二たちが海鹿島を訪ねた頃はかろうじて姿が見られたにちがいない。沖にはアシカとイルカたちを狙うシャチも遊泳していたかも知れない。
夢二たちは宮下荘に宿をとった。その隣に長谷川という大きな家があった。長谷川夫妻は秋田・久保田藩士族の家の出で、代々学者、教育者の家柄であった。ただこの当主、長谷川康は軍人となり、退役後に銚子の海鹿島に越してきたという。康の兄妹もみな教育者であるらしい。
長谷川夫妻には三人の娘がいた。長女は女子師範学校を出て、成田で高等女学校の教師をしており、二女は秋田の教師に嫁していた。三女のカタは成田の長姉の元に寄寓していた。彼女は夏休みを利用し、海鹿島の両親の元に遊びに来ていたのである。カタは色白で目の大きな美しい娘だった。秋田美人なのである。読書好きの、大人しげな娘だった。夢二はたちまち一目惚れした。
夢二は宮下荘の二階から、娘が外に出てくる機会を待った。また日盛りの中で、彼女が外に出てくるのを待った。カタが外出すると夢二はすぐ後を追い、挨拶の声をかけた。
他万喜と虹之助は全く放っておかれた。母子は、海鹿島の汀や岩礁の汐溜まりで寂しく遊んだ。
大待宵草(おおまちよいぐさ)が黄色の花を開く夕方の松林の中を歩きながら、夢二はカタに優しく微笑みかけ、絵の話や文学の話をし、そしてカタの話を聞こうとした。カタは無口で微笑みかえすばかりだった。夢二はカタに自分の画集とエハガキを贈った。君を絵に描きたいと言った。僕の絵のモデルになって欲しいと言った。カタは十九歳である。夢二の言葉に満更でもなかった。
カタと東京の絵描きは海鹿島の集落の噂になった。何しろ、カタが外出する際には、その横に必ず東京の絵描きがいるのである。カタも嬉しそうに寄り添って歩いているという。長谷川夫妻はこの噂に驚き、東京の絵描きと一緒に歩いたカタをひどく叱った。
夢二は大逆事件も他万喜も虹之助もどうでもよくなり、カタを口説き落とすことに全力を挙げた。しかしカタの両親の必死の警戒と妨害もあり、なかなかカタをものにできなかった。やがて夢二の夏休みも終わり、仕事の打ち合わせ等もあって、彼は恋の焦燥感を抱きながら東京に戻った。他万喜と虹之助は九月まで海鹿島に留まった。
夢二はカタに恋情に溢れた手紙を出した。カタからの返書に有頂天になり、また手紙を出したり、新しいエハガキを贈ったりした。実にまめなのである。

長谷川カタの両親も焦っていた。あの男の娘を見る目つきの嫌らしさはどうだろう。女房も子どももいるというのに、人目を憚らず娘をつけ回す。あの女たらし、あんな不良絵描きの毒牙にかかる前に、カタを真面目な堅気の男に嫁がせたい。
父親の教育関係の知人から良い話が寄せられた。紀州藩藩校の代々学者や教育者の家柄で、東京音楽学校を出て、いま鹿児島師範学校で音楽教師をしている実直で壮健な、実に好青年がいる。近々京都師範に移るという。カタの父親はその信頼できる知人に言った。
「あなたがそこまで誉めるのですから安心です。是非その方とのお話を進めていただきたい」

その好青年の名を須川政太郎といった。明治十七年の暮、和歌山県東牟婁郡新宮町に生まれた。和歌山中学から東京音楽学校の甲種師範科に進み、教師となった。彼は大正四年に、第七高等学校(鹿児島大学)造士館寮の寮歌「北辰斜に」を作曲している(近年「北辰斜めにさすところ」が映画化された)。
須川政太郎は少年の頃から大石誠之助が好きだった。子どもの頃病気をしたおり、青年医師の大石先生が往診に駆けつけてくれたことがある。先生は誰に対しても優しかった。道で会うと必ず声をかけてくれた。話しかけられると元気が出た。肩を叩かれると勇気が出た。この大石先生の姿に人間の生き方の理想像を見た。先生は社会改良や人間の生得権などの話を、まるで同輩の友人に語るように、易しい言葉で話してくれた。
大石先生に音楽教師への志望を親に反対されていると話すと、
「音楽かいなあ、ほりゃええげー、がいにええ夢じゃがのし。音楽で世ん中を明(あか)くせえよし」
と励まし、音楽は人の心を慰める、元気づける、少しぐらいの病気は音楽で治せるんだと笑った。そして
「おまんとこの親父さんにゃあ、わえからもよう言うちゃろ」
と請け合った。政太郎はそんな郷土の先輩・大石先生を尊敬していた。
…ところが、大逆事件の首謀者の一人として先生は逮捕され、死刑判決が出た。大きな衝撃が政太郎を襲った。爾来、政太郎は人前で政治向きの話を一切しなくなった。

明治四十四年一月二十四日、街に号外が出た。それは死刑判決が下っていた幸徳一味十二名のうち、スガを除く男の受刑者十一名の処刑が執行されたという速報である(スガの執行は翌日である)。
夢二宅に頻繁に出入りしていた一人の女子学生が、その号外版を夢二に手渡した。読み終わった夢二は
「今夜はみんなでお通夜をしようよ。線香と蝋燭を買ってきておくれ」
と言って、女子学生にお金を渡した。
彼女が自分の所用をすませ、お線香と蝋燭を買って戻ってきた頃、春未だ遠い短日はたちまち暮れようとしていた。彼女の名を神近市子といった。市子は五年後、愛憎のもつれから、葉山の日陰茶屋で大杉栄を刺すという傷害事件を起こしている。

その初秋、夢二は銚子の海鹿島に行った。長谷川カタに結婚を申し込むつもりだったのである。ところがカタはいなかった。夢二は彼女が結婚したことを知った。
夢二はカタと歩いた松林にひとり佇んだ。カタと並んで沖を見つめた磯場に、ひとり佇んだ。夢二は失恋したのだった。
夢二は病を得、信州富士見高原に転地療養した。その地で海鹿島の夕闇の松林の中に黄色い花を咲かせていた大待宵草と、その花が好きだと言った長谷川カタを偲んだ。

待てど 暮らせど 来ぬ人を
宵待草の やるせなさ
今宵は月も 出ぬそうな

明治四十五年の六月、その詩が「少女」に発表されてからほぼ二ヶ月後に、大逆事件の余燼の尾を長く引きながら、明治が終焉した。夢二は倦怠と耽美的な傾向を強めていった。人はそれを大正浪漫と称した。

その後も夢二は次々と新しい恋人をつくった。他万喜とは別れと同居を繰り返して、さらに不二彦と草一という二人の子どもをもうけた。やがて他万喜は夢二から完全に離れていった。二人の間が破綻した後も、月刊「夢二エハガキ」の発行元は、他万喜の兄・岸他丑の「つるや書房」であった。
長谷川カタは朴直、篤実な須川政太郎と結婚し、夫の任地である京都、彦根、愛知県の半田で平穏に暮らした。