戦死ヤアワレ

三軒茶屋の駅からほど遠くない世田谷通りに面し、数軒と一本の脇道を隔てて、二軒の古書店があった。これらの店はすでにない。ともに私が帰り道によく立ち寄った古書店である。私はこの二軒から、かなりの冊数の本を購入した。
一軒は色白で端正な老人が座っており、もう一軒は鈴木清順によく似た不敵そうな老人が座っていた。ごく自然に、二人とも寡黙である。そして何と味のある面貌と、雰囲気を醸していたことだろう。ブックオフの店長では、こういう得も言われぬ空気は醸し出せまい。来し方の人生の累積や、知性の蓄積が違うのだ。
あるとき私は、安藤昌益とか梅原北明とかの資料を探しており、書籍名とか著者名等を、あちこち探したり書店や図書館で検索したが、ついに見つけることができなかった。
ところがこの古書店の老人は、書籍名、著者名等を告げると、端然と「ああ、それなら…」と言うのである。その傍らから手垢に汚れた大判の大学ノートを取り出し、パラパラとめくり「○○○は大正○年、□□□著で△△書房刊、全○巻。それは神保町の○○堂と□□書房にあります。価格は○○万円くらいになりますかなあ。それと▽▽▽は昭和二年…」
…インターネット検索なにするものぞ。この方たちの記憶と記録は驚くべきものであった、また彼等といろいろ話して分かったのは、この方たちの読書量の膨大さであった。「あまり出ませんが、あの本は面白いですなあ…」と飄然と言った。

三十年以上も前になる。この古書店のどちらか忘れたが、棚の書籍の背表紙を眺めていた。するとその内の一冊が「手に取れ、そして買え」と言うのである。本当にそう声がしたのである。書名は「戦死ヤアワレ」。私はその声のままに本を棚から抜き出した。著者名は「足立巻一」とあり、新潮社刊である。私は無知だから、足立巻一という著者に全く知識がなかった。しかし、その本の帯の文が私を捉えて放さなかった。

「昭和二十年四月二日、比島にて戦死した竹内浩三の遺した詩『骨のうたう』より」
白い箱にて故国をながめる
音もなくなんにもなく
帰ってはきましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や
女のみだしなみが大切で
骨は骨
骨を愛する人もなし
骨は骨として勲章をもらい
高く崇められほまれは高し

なれど骨はききたかった
絶大な愛情のひびきを
ききたかった

がらがらどんどんと
事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は化粧にいそがしかった

ああ戦死やあわれ
兵隊の死ぬるやあわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

原文は漢字以外カタカナ表記で旧仮名遣いである。私はその本を店主に渡し、「足立かんいち、って著者はどんな方ですか?」と尋ねた。主人は「足立けんいち、は本居春庭の研究者で、詩人ですね。たしか関西の大学の先生でしたか…」と物静かに言った。
私は「戦死ヤアワレ」を徹夜で読み耽った。この青年、竹内浩三は、戦後の日本の姿が、完全に見えていたのだ。熱帯のジャングルの傍らで、死を前にしたその直感と透視を、鉛筆で小さな手帖に書き留めていた。

やがて私は足立巻一の「やちまた」(河出書房新社)全二巻を、このどちらかの古書店から買い、さらに桑島玄二の「純白の花負いて 詩人竹内浩三の〝筑波日記〟」(理論社)を、このどちらかの古書店で買った。また竹内浩三全集「骨のうたう」「筑波日記」(新評論)を、このどちらかの古書店から買った。

竹内浩三は宇治山田の青年であった。その写真を見ると、細面の優しげな面立ちである。出征前日、姉と二人の幼い姪と撮った写真がある。宇治山田中学時代の恩師によれば「彼は、神のような無邪気さにあふれていた。善意のかたまりのような子だった」そうである。
彼は漫画に夢中になりながら、やがて映画の世界を志す。日本大学専門部映画科に進み、映画作りを夢見た。しかしその頃の映画は国策映画ばかりになっていた。その頃、伊丹万作監督の知遇を得たことが、彼のわずかな希望だった。やがて戦争はありとあらゆる青年たち、人々の夢やささやかな生活を破壊していった。「筑波日記」は静謐なニヒリズムにひたされている。

戦死した若者たちを讃仰する人(某禿頭作家など)や作品は多い。しかし、全ての戦死や戦病死は無残なのである。どんな戦死も、どんな戦病死も、無惨なのである。戦争による全ての死は無惨なのである。そしてあらゆる戦争は、崇高な行為ではなく愚行なのだ。
ある夏の日、中谷という防衛大臣が言った。「兵隊は人には当たらず、消耗品です」。ある夏の日、武藤というガキのような顔をした傲慢な政治家が呟いた。「戦争にいきたくないじゃん、と言うのは自分中心、極端に利己的考え」…じゃあ、先ずお前が行け。

戦死やあはれ
兵隊の死ぬるやあはれ
とほい他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもゐないところで
ひょんと死ぬるや

ふるさとの風や
こひびとの眼や
ひょんと消ゆるや

竹内浩三の永訣の詩「骨のうたふ」は昭和二十年四月二日に記された。その七日後のことである。
戦死公報…「陸軍上等兵竹内浩三、比島バギオ北方一〇五二高地にて戦死」