横浜の歌、そして風 〜掌説うためいろ余話〜

幼い頃、横浜に暮らしていた。家は野毛山の中腹で、夜な夜な野毛山動物園から象か猛獣の遠吠えが聞こえた。
近くに迎賓館があり、昼間からアメリカ兵たちが出入りしていた。小さな私は迎賓館の破垣(やれがき)を、猫のように這ってくぐり抜け、庭園の中に入り込んで遊んだ。植木や庭石の陰から建物を窺うと、大きなアメリカ兵たちが派手な若い娘たちと廊下を歩く姿を見かけたものである。自然に、年上の子どもたちや大人たちの使う言葉を覚えた。つまり「エムピー」とか「パンパン」という単語である。MPは私を見つけると、ポケットからキャンデーやガムを取り出して、私の手にそれを握らせた。赤い唇の娘たちは、にこにこ笑って私の頭を撫でた。女将が出てきて私を叱り、追い出した。
当時、母は眼を患っており、私の手を引いて水が青黒く澱んだ吉田橋などを渡り、眼科に通った。母は医者に目の縁に青みがかった塗薬を施されていた。通行人が母を振り返り囁いたものである。そのため幼い私は「ヒロポン」という単語を覚えた。母はヒロポンを打っていると誤解されたのだ。多くのヒロポン常習者は吉田橋のたもとに蹲り、また道にも蹲っていた。彼等は一様に目の縁が黒ずんでいたのである。
日ノ出町から伊勢佐木町には多くの立ち飲み屋があり、昼間から酔漢たちが路上で殴り合いの喧嘩をしていた。仰向けに倒れた相手の腹の上で飛び跳ねる長靴の男や、倒れた男の顔を蹴りあげる男たちを今でも覚えている。そんな喧嘩を何度も見かけた。見るたびに恐怖で胸が激しく動悸した。
誰に連れられていったのか記憶にないが、当時の山下埠頭の風景を鮮明に覚えている。
その港の風景は、私に三つの歌を覚えさせた。「赤い靴」であり「青い眼の人形」であり、「かもめの水兵さん」である。これらの歌を聴くと当時の横浜を思いだし、横浜に行くと、この三つの歌を想い出すのだ。頭の中で歌い出すといってよい。
三つの曲は野口雨情と関わりがある。「赤い靴」「青い眼の人形」は雨情と本居長世 のコンビによる作品である。「かもめの水兵さん」は武内俊子の作詞だが、彼女は雨情に認められ、彼に師事した。 俊子の自費出版の童謡集「風」に、雨情は序文を寄せている。
「如風去来不盡と古人も言ってある通り、風ほど不思議なものはない。あるが如く、なきが如く、或は春風となり或は朔風となり時と共に移りてその去来すらもわからないのは風である。天地は悠久であるが、天地のあらん限り風のなくなることはおそらくあるまい。」
「子どもと共に風の子となって謡いたい」と俊子は書いた。
風なのである。私にとっても風とは横浜の記憶の一部でもある。雲一つ無い青空の広がる日、風が強く、それは本当にヒュウヒュウンと音を立てて吹きつのった。大人たちは、あれは電線が風に震えて鳴る音で、風の音ではないと言った。…

「船頭さん」
村の渡しの 船頭さんは
今年六十の お爺さん
年はとっても お船をこぐときは
元気いっぱい 櫓がしなる
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ
ちなみに、二番の歌詞で船頭さんは「戦地へ行くお馬」を運んでいたが、戦後「かわいい子馬」に歌詞が変えられている。

「赤い帽子・白い帽子」
赤い帽子白い帽子 仲よしさん
いつも通るよ 女の子
ランドセルしょって お手々ふって
いつも通るよ 仲よしさん

「りんごのひとりごと」
私は真赤な りんごです
お国は寒い 北の国
りんご畑の晴れた日に
箱につめられ 汽車ぽっぽ
町の市場へ着きました
りんご りんご りんご
りんご 可愛い ひとりごと

武内俊子の才能は素晴らしい。どれも優しさにあふれている。写真を見れば、どこか日本人離れした美人である。目鼻立ちのはっきりした、その顔のつくりから、なぜか大柄な女(ひと)だったように想像してしまう。どうだったのだろう。その詩の成立に、秘められた挿話はなかったのか。劇的な生き様はなかったのか。夫が彼女の伝記を残しているらしいが、まだ読む機会がない。いろいろ詳しく調べたいが、まだ何も手をつけていない。
彼女…渡辺俊子は明治三十八年、広島県三原市の浄土真宗の淨念寺に生まれている。水泳が得意な少女だったらしい。その水泳が縁で武内邦次郎と結婚し、世田谷の三軒茶屋に暮らし、昭和二年に安達式挿花の師範の資格を取った。昭和四年に長男、七年に長女を出産した。四児の母親として子育てをし、安達式挿花師範として弟子もとり、たくさんの童謡詩や童話を書き、結核を病んで三軒茶屋の自宅で療養していた。「りんごのひとりごと」はお見舞いにいただいた林檎を見ながら詩想を得たという。
昭和二十年三月十日の東京大空襲の被災を免れたものの、四月にまだ四十歳になるかならぬかの若さで亡くなっている。そのとき長男は十六歳、長女は十三歳だった。どんな母親で、どんな子どもたちだったのだろう。そして三軒茶屋のどのあたりに暮らしていたのだろう。
俊子が「かもめの水兵さん」の詩を思いついたのは、ハワイ布教に行く叔父・渡辺哲信を、横浜の大桟橋に見送りに行った際、波間に浮かぶカモメたちを見たときだった、と何かで読んだことがある。
哲信は俊子の父・俊哲の弟で、浄土真宗の学僧である。ハワイ布教というが、哲信にとって、ハワイは南洋文化への民俗学的、文化人類学的興味が強かったかもしれない。彼はかの大谷学術探検隊の一員として、アジア、ユーラシアを旅し、遺跡の発掘に当たった一人であった。

浄土真宗本願寺派は、いつ頃から海外伝道を展開していたのだろうか。詳細は知らないが、日露戦争後に活発になったらしい。第二十二世法主・大谷光瑞は、日露戦争に際し多数の従軍布教使を送ったという。光瑞は第二十一世法主・光尊の長男である。哲信はこの新門(次代宗主)の光瑞に気に入られ、若くしてモスクワ留学を命じられ、またエジプトなどにも派遣されている。
1902年(明治三十五年)、当時ロンドンに留学中であった光瑞は、教団活動の一環として学術探検隊を組織することにした。ロンドンには哲信もいた。光瑞は本願寺派の俊才・藤井宣正をロンドンに呼び、哲信がテームズ川の波止場に宣正を出迎えた。宣正は彼の恩師でもあったのである。
藤井宣正は安政五年、越後国(新潟県)長岡の光西寺に生まれた。旧制長岡中学から慶應義塾に進み、西本願寺内地留学生として東京帝国大学の哲学科に学んだ。惜しむらくはこの学僧は病弱であった。卒業後、西本願寺文学寮教授となり、仏教学を教えた。明治二十五年、宣正は長野県飯山の真宗寺の井上寂英の長女・瑞枝(たまえ)と結婚した。挙式は翌年に東京白蓮社会堂で行われたが、これが日本初の仏前結婚式らしい。
渡辺哲信は西本願寺文学寮で、宣正の指導を受けている。明治三十年、宣正はその教授職を突然解任された。理由は不明である。肺を患っていたからであろうか。彼はその後、埼玉県第一尋常中学校の校長となった。医者から余命数年と告げられていた。しかし明治三十三年、藤井宣正は西本願寺からヨーロッパの政教調査を命じられロンドンに派遣された。彼は大英博物館やヴィクトリア・アルバート美術館で仏教美術研究などを詳細に見聞して帰国した。
第一次大谷探検隊の一員となった井上弘圓は、宣正の妻・瑞枝の弟である。また後の話となるが、井上家の飯山の真宗寺は島崎藤村の「破戒」に蓮華寺として描かれ、物議をかもした。そのおり、井上寂英の次女で弘圓の妹・鶴枝を妻としていた高野辰之は、島崎藤村に厳重な抗議をしている。高野は「故郷」「朧月夜」「紅葉」「春がきた」「春の小川」など、数々の優れた唱歌の作詞で知られる。その「朧月夜」に描かれた一面の菜の花畑は、まさに飯山の春の風景であったに違いない。

さて第一次探検隊のことである。その夏、宣正がインドに先行して出発し光瑞等を待ち受けた。この探検隊に本多恵隆、井上弘圓、堀賢雄が加わり、光瑞、哲信らとサンクトペテルブルクに集合し、バク、サマルカンドを経て、テレク峠を越え一ヶ月をかけてカシュガルに入った。ここから南道を東行し、ヤルカンドを経由してタシュクルガンに至り、インド隊と西域隊の二隊に別れた。馬と駱駝の旅である。インド隊は光瑞、弘圓、本多恵隆で、宣正の待つインドに向かい、ギルギットを経てカシミールのスルナガルに到着した。哲信と堀賢雄は分厚い毛皮の防寒具に身を包み、ヤルカンド、ホータン、クチャに向かい、ここで遺跡の発掘と調査を行った。さらにタクラマカン砂漠を横断し、アクス、トルファンを経て再びカシュガルに至った。中央アジアのシルクロードの踏査である。
インド隊は、胸と胃腸に疾患を持つ藤井宣正を実質的なリーダーとし、仏蹟などの発掘調査を行っている。翌年一月、彼等は釈迦が無量寿経や法華経を説いたと伝えられる謎の地、旭日に照らされた謎の山とされていた霊鷲山(りょうじゅせん)を、ビハール州の中央部、ラージギル東方にある南面山腹に発見した。
その月、法主の光尊死去の報に接した光瑞は帰国し、第二十二世法主となった。インド隊には薗田宗恵、日野尊宝、島地大等らが加わり、学術探検はそのまま継続され、インド、東南アジアの仏教伝播の軌跡と、エローラ石窟群、アジャンター石窟を探査した。なお、宣正らのインド調査の一部に、彼を尊敬する宗教学者・姉崎正治が同行している。姉崎については、「掌説うためいろ」の「むかしの光 よわの月 ~西欧留学生往来~」で触れた。
また西域隊とは別にビルマ・中国隊も編成され、雲南省ルートを野村禮譲、茂野純一が調査している。彼等はその途次、建築家の伊東忠太と出会い、これが機縁となり、後に伊東は築地本願寺の設計を手掛けることになる。

このように第一次大谷学術探検隊は、貴重な遺物や古文書を日本に持ち帰ったのである。光瑞は薗田宗恵らの帰国を認めたが、藤井宣正に帰国を許さなかった。彼は光瑞から休む間もなく再び調査行きの命令を受け、ロンドンに向かった。その途次病状が悪化し、フランスのマルセイユに着いたところで病院に担ぎ込まれ、そのまま帰らぬ人となった。四十五歳の若さである。その死に姉崎正治が追悼文を寄せ、また明治三十七年、島崎藤村はこの異国に客死した宣正をモデルに、書簡体の短編「椰子の葉陰」を書いている。
光瑞は宣正を重用したのだろうか。大事にしたというより「これは便利」と使いまくったという印象が強い。どうも光瑞は宣正に対して非情だったように思われる。光瑞は学術探検隊で宣正が果たした役割や研究を、あまり評価をしていなかったのではなかろうか。なぜなら、宣正は大谷探検隊の中からその名も消されている。これは光瑞の意思とみてよい。宣正が本願寺学位として最高の「勧学」を任じられたのは、その死から十七年も経た後のことである。ここにも光瑞の宣正への冷淡さが覗われる。

さて、この後は妄想である。
…町に雨が続き、それは何日も沛然と降り続き、あらゆる物を腐(くた)し、何もかも見えなくなるほどの豪雨として続き、町を水没させ押し流す。その後に晴れ上がった日が続き、太陽は何日も何ヶ月も照り続け、大地はカラカラに干からび、ひび割れる。そして風が吹き起こり、それは何日も何日も吹きつのり、猛烈に吹き荒び、地上の何もかも吹き飛ばす。こうして何もない砂と石の荒野に還る。まさに「百年の孤独」。
西アジア、そして中央アジアからインド、中国へと続くシルクロード地帯は、もとより厳しい自然環境下にあったのだろうか。かつては緑豊かな土地ではなかったのか。このことである。…何らかの理由で地表から川の水が消えた。地下水が涸れた。地上から草木が消えた。そして風が吹き起こり、その風は強く吹き荒び続ける。やがて風に吹き飛ばされる砂が、シルクロードを繋ぐ都市の建物を削り、岸壁に掘られた石仏を削りとり、それらは砂と化し、砂は絹の道や、都市や仏教伝播の道と石窟仏を埋めていく。砂は移動し、広がっていく。千年、二千年の孤独。
我々はつい最近もこれを目撃している。私が高校生の頃の地理の授業では、大陸の中のアラル海は、まだ満々たる水を湛えた巨大な湖(うみ)だったのだ。それが消滅した。理由は自然を改造するという灌漑事業がきっかけだった。カモメはどこに消えたのか。水鳥たちはどこに行ったのか。ペリカンやフラミンゴはどこに飛んで行ったのか。
残ったのは広漠とした塩と砂の荒野である。やがて地表はひび割れ、そして風が吹き、それは何日も何日も吹き荒び、塩と砂を吹き飛ばし、かつてのアラル海周辺の緑も農地も塩害で枯れていく。塩と砂の曠野は広がっていく。