達磨さん 〜掌説うためいろ余話〜

ある日、部屋から遠くの景色を眺めるうちに、遙か彼方に寺院の大屋根らしきものと、尖塔とその屋根らしきものを発見した。双眼鏡を持ち出して眺めると、大屋根はこんもりと繁った木々を圧して高々と見え、その離れた横から五重塔が顔を出している。見事な大屋根である。霞んでいるが美しい塔である。それは池上本門寺の大堂と五重塔であった。池上本門寺…そこに十歳で入寺した少年に、私の想念が飛ぶ。

それはそれは目の大きな小僧さんであった。長じて、大きな目玉の、容貌魁偉な人であった。それに似ず優しい男で、林古渓という筆名で美しい詩や歌を詠んだ。大きな眼を剥いて見せても、恐いというより愛嬌があったのであろう。その風貌から達磨さんと呼ばれた。旺盛な向学心と好奇心を持ち、その大きな目で何でも見てやろうとしたのだろう。その名を林竹次郎という。…
「グレッグ・アーウィンの英語で歌う、日本の童謡」の出版に携わった折りのことである。「浜辺の歌」の林古渓について調べていたとき、小笠原東陽という名に出くわした。父を亡くした十歳の竹次郎(古渓)少年は、この東陽の世話で池上本門寺に入寺するのである。はて、この名は以前どこかで見たことがある。…想い出した。三十数年前に読んだ歴史家・色川大吉の「明治人~その青春群像」(筑摩書房)に、その名は登場した。彼は藤沢の偉大で非凡な平凡人・平野友輔らの師であった。…竹次郎少年と小笠原東陽の関係について想像をめぐらした。

幕末から維新と続く激動、激変の時代である。竹次郎少年はまだ生まれてもいない。明治四年、廃藩置県。文部省が置かれた。翌明治五年は学制が頒布され、東京、大阪間に電信が開通し、新橋、横浜間に陸蒸気が走った。ちなみにその年の十一月、政府は突然、太陰暦から太陽暦への改暦を発表した。十二月三日は、明治六年の元日となったのである。
その明治五年の三月、神奈川県高座郡羽鳥村(現・藤沢市)の名主で豪農の三觜八右衛門は、地元の学区取締を委任され、学校の開校とその良師を探していた。彼は所用で出た池上本門寺付近で、青菜を洗う学者風の中年男を見かけた。その身なりは貧しげだが、ただ者ではないと感じ、声をかけて話を交わした。八右衛門はわずかばかりの話のうちに感銘を受け、男にどうか藤沢に来て村塾を開いて下さらぬかと懇望した。
男は元姫路藩士、小笠原鉄四郎(東陽)。天保元年、勝山藩士の三男として谷中に生まれたが、三歳で父を亡くし、姫路藩士の奥山氏にもらわれていった。向学心に溢れた少年と成り、安政元年、昌平黌に入って佐藤一斎らに学び、安政六年に林鶯渓に入門した。鶯渓の下、邸学副督にまでなった逸材である。
師の林鶯渓は、林羅山に連なる林大学頭家当主の林述斎の六男・復斎の子で、第二林家の家督を継いで第八代当主となり、幕府儒者に任ぜられていた。江戸幕府最後の儒者の一人である。
慶応四年、東陽はさっさと士禄を返上して民籍となった。以後周易の売卜稼業で糊口をしのいでいた。やがて池上本門寺から招聘され、僧侶たちの漢学教師となって赤貧の日々を送っていたのである。

東陽は羽鳥にやって来た。用意されていたのは破屋となっていた廃寺・徳昌院である。彼は読書院と名付けた塾を開き、村人を前に「水滸伝」を語り始めた。それは実に雄弁、情熱的で、壮大にして感動的であったという。講談に似ていたのかも知れない。彼はたちまち尊敬を集めた。やがて東陽は毎夜村人を前に人間の道を説き始めた。平野友輔もすぐに読書院に入塾した。
翌六年、神奈川県も一村一校の学制を施行し、読書院も羽鳥学校と改名するよう求められたが、東陽は読書院をそのまま私塾として残し、学制にとらわれぬ自由な教育の場とした。東陽は柔軟な思考の持ち主だったのか、儒学、漢学ばかりでなく、彼の元で学んだ若者たちは豊かな知性、教養を身に付け、経世済民思想、易世革命思想、西欧史、法制、民権思想を育んでいった。彼の塾は耕餘塾(耕餘義塾)と名を変え、相州第一の高等学府として、遠近から常に百名を超える塾生を集めた。慶應義塾から教師を招き、数学、理科、英語等も教えている。自由民権家の平野友輔や村野常右衛門らは、読書院、耕餘塾の強い影響下に巣立ち、後年、吉田茂もここに学んでいる。
…明治七年、東陽の師であった林鶯渓が亡くなっている。…ところで東陽先生、その厭人癖は年々強まり、まるで世捨て人か仙人のようになっていった。晩年は暇さえあれば相模の海に舟を漕ぎ出し、雨の日も寒い冬の日も、独り釣り糸を垂れていたという。寒江独釣か。

明治八年夏、竹次郎(古渓)は、林三郎の次男として東京の神田に生まれた。三郎は、姫路藩士・永田家の子孫だったが、もともと林羅山につながる代々儒学者の家柄という自負もあったのだろう。明治維新に際して永田姓を林姓に変え、藩籍も棄てた。彼は林鶯渓の家塾にも出入りしていたに違いなく、以前より同じ姫路藩士・小笠原東陽にも親しく接していたのだろう。
三郎は上総国長柄郡六地蔵村(現・千葉県長柄町)に移り住み帰農した。しかし武士の商法ならぬ農法であったろうか、再び神田に移り住んでいる。その後、教員試験に合格した三郎は、明治十一年、小笠原東陽に招かれ、羽鳥学校の教師となり、林一家は羽鳥村に転居した。
竹次郎が羽鳥村に暮らしたのは三歳から七歳までの間で、叔母と娘(従妹)も同居している。父の三郎は竹次郎らに早くから漢学と儒学をたたき込んだ。これは林家として当然の教育なのである。三郎は林家が江戸初期の林羅山に連なる家柄であることや、永田姓の頃から第二林家第八代当主の林鶯渓の教えを受けたこと、その門人への熱心な指導ぶり、公正で温厚な人柄について語ったものと思われる。また鶯渓のもとで邸学副督を務めていた小笠原東陽のことや、鶯渓の父・復斎が林大学頭家第十一代当主であり、幕末にペリーとの交渉役を務めたこと等も伝えたに相違ない。復斎は早くから諸外国の情勢に通じ、開国すべし、しかし諸外国との通商条約締結は時期尚早、断固拒否の姿勢を貫いた。彼が柔軟な思考の持ち主であったこと等も教えたかも知れない。
羽鳥村の家から南へ行った所に辻堂海岸が広がっていた。子どもたちはよくこの浜辺に出かけ、海を眺め、裸足で散歩し、砂浜の貝殻を拾い、沖に向かって投げて遊んでいたのに違いない。
相模の海盆波たかし辻堂の はまの松ばら秋の風吹く(古渓)

やがて明治十五年晩秋、三郎は神奈川県愛甲郡下古沢村(現・厚木市)の古沢学校の第三代校長になり、一家はその地に転居した。当時の古沢村は大山の麓、森林に囲まれた渓流、古刹や神社もある農村である。
ちなみに竹次郎、後の林古渓という筆名は、この古沢村と渓流のある風景を懐かしんで採ったと言われているが、私には父・三郎と小笠原東陽の師、林鶯渓から採ったように思われる。
竹次郎は父の小学校に入学した。翌々年の明治十七年三月、竹次郎が十歳の時、三郎が病に倒れた。
古沢の山のたらの芽ことごとく 取りもつくしつ父に食さす(古渓)

三郎が逝った。享年四十九歳である。彼には二男二女(兄、古渓、姉、妹)があった。三郎亡き後、母は古沢学校の教員となったが、一家の生活は窮迫した。叔母と従妹、姉、兄も、みな別れて東京に送り出されて行った。竹次郎も小笠原東陽の紹介状を持ち、池上本門寺に入寺した。母と残ったのは七歳になる末娘ばかりであった。
こうして竹次郎は日蓮宗の僧侶となるべく、池上本門寺で修行生活を送り、十六歳のときに得度した。その後池上本門寺を離れ、真宗大谷派の学僧・井上円了が創設した哲学館に、国漢を学ぶために入学した。哲学館は現在の東洋大学である。林家の儒学と漢学の血なのであろう。彼は漢詩の才能を伸ばしはじめると同時に、仲間たちと新体詩にも没頭した。

明治三十二年、卒業すると竹次郎は哲学館付属の白山の京北中学校で国漢科の教師となった。毎朝校門の前に立ち、登校してくる生徒たちを、大きな眼と大きな声で迎えたという。だらだらと登校してくる生徒には、池上本門寺で鍛えた大音声で喝を入れたにちがいない。一見その顔も様子も恐かったに違いないが、生徒たちは彼を「達磨さん」と呼んで慕った。
彼は好奇心と向学心の強い人だったと思われる。良い意味で迷いの人であったのだろう。教師をしつつ、三十歳を過ぎてから東京音楽学校に入学しその分教場に通った。ここで生涯の友となる牛山充先輩に出会っている。また第一外国語学校にも通い、イタリア語を学んでいる。
ちなみに牛山は、後に日本の音楽評論、バレエ評論の先駆をなした。牛山は東京音楽学校で教鞭をとるかたわら、学友会誌「音楽」の編集に携わり、ここに竹次郎・林古渓は毎号作品を寄せた。
ある日、牛山は成田為三らの学生に「この詞に曲をつけてごらん」と言って、古渓の「はまべ」という詞が掲載された「音楽」(大正二年三月)を示した。大正四、五年のことらしい。美しい詞である。

(一)
あした はまべを さまよへば、/ むかしの ことぞ しのばるる。
かぜの おとよ、くもの さまよ。 / よする波も かひの いろも。
(二)
ゆふべ はまべを もとほれば、 / むかしの ひとぞ、しのばるる。
よする なみよ、かへす なみよ。/ つきのいろも ほしのかげも。
(三)
はやち たちまち なみをふき、/ 赤裳の すそぞ ぬれもひぢし。
やみし われは すでに いえて、/ はまべの真砂 まなご いまは。

「あした」は朝、「もとほれば」は「廻(もとお)る」で、「はやち」は疾風、「なみをふく」は波を吹くである。赤裳は実に万葉的な響きで、女性の着物の裾を象徴すると考えれば良く、これをより具体的に説明するのはいかにも味ない。濡れも「ひちじ」は濡れ「漬(ひ)づ」で、びっしょり濡れた様、「やみし」は病みし、「いえて」は癒えて、真砂は「まなご」と読み、次の「まなご」は「愛子」で愛児か愛する人を意味する。
これは古渓が恋情を込めて書いたもので、一説には、湘南で療養していた恋人の病が癒えたという喜びの詩なのである。歌詞は四番まであった。しかし牛山は、三番の前半と、四番の後半をつなげて書き直し、掲載した。牛山本人はそれ自体を気付かなかったか、気にも留めなかったと思われる。
古渓は牛山に特に抗議はしなかったようである。彼は「これでは意味が通らん」と、三番の歌詞が歌われることを好まなかった。原詩は失われてしまったようである。後年ご子息が「思い出したらどうですか」と言うと、「忘れちゃったよ」と応えたという。彼の人柄を偲ばせる。
成田為三は「はまべ」に自分の恋情を重ねて曲を付けた。この曲は大正七年十月、セノオ音楽出版から竹久夢二の挿絵入りで「浜辺の歌」と題して発表された。この改題は妹尾幸陽が勝手にしたものだろう。このときも古渓は、無断で詩の題名を変えられてしまったのだ。特に抗議はしなかったようである。おそらく林古渓は、そんな人柄だったのだろう。