砂と美酒と美姫と 〜掌説うためいろ余話〜

子どもの頃、「月の沙漠」という童謡を聴くたび、幼なごころにもエキゾチシズムを感じたものである。その曲調にではなく、沙漠、駱駝、金と銀の鞍、銀の甕、金の甕、砂丘とかの詩の言葉に対する反応である。もちろん、エキゾチシズムとかそんな語彙は知らないのだが、どこかずっと遠くの、知らない世界と、知らない文物があって、それはなぜか胸を締め付けるほど綺羅綺羅しく、また茫漠として何か哀切な…感じなのである。
加藤まさをが「月の沙漠」の詩想を得たモデルの地が、青年時代に療養し、またその晩年を過ごした千葉の御宿の海岸か、生まれ故郷の静岡の藤枝の海岸かについては、私は全く興味も関心も無い。本人が人に問われ、ある時は「御宿」またある時は「藤枝」と言ったのかも知れないが、おそらくそれは、何度も同じことを訊かれるので、面倒になってそう応えたに違いない。優しい人か、面倒くさがり屋が取りがちなことである。
おそらくそれらの砂浜より、強い影響を与えた時代の空気、雰囲気があったのではなかろうか。文学青年、芸術青年たちの感性に、強い影響を与えた流行の熱源があったのではなかろうか。私には、それこそが「月の沙漠」の詩想の源泉と思えてならないのだ。

「月の沙漠」(佐々木すぐる作曲)の曲調にエキゾチシズムは感じないが、エリック・サティの「ジムノペディ」や「グノシェンヌ」にはエキゾチシズムを感じる。大好きだ。ジムノペディもグノシェンヌも、ギリシア語語源のサティの造語である。そのエキゾチシズムはオリエンタリズムから来ている。オリエントといってもアジアではなく、中東である。
そもそも日本人が感じるエキゾチシズムとは何なのか。いや私が感じたエキゾチシズムとは何だったのか。…
私はギリシアが大好きである。現代のギリシアにも残る、古代ギリシアの文物が醸し出す西欧とどこかオリエンタルな匂いが好きなのだ。かつてクレタ島のイラクリオン港からイタリアのバーリ港に着いたとき、そこは全くの西欧で、少しもエキゾチシズムを感じなかった。
イタリアのサレルノ港やシシリーのパレルモの港から、シチリア海を渡ってチェニスに着けば、まさにその街はエキゾチシズムそのものなのである。またスペインのアルジェシラス港からジブラルタル海峡を渡り、タンジールに着けば、まさにエキゾチシズムのただ中に至る。建物のフォルムもタイルのデザインも好きだ。モスクのミナレットから石畳に響き渡るアザーンも好きだ。全く意味が分からないが、なぜか耳に心地よい。
ところが私はイスラム教に関心が無い。かつて井筒俊彦が訳した「コーラン」を読んだが、その教義が全く理解できなかった。また井筒の著した「イスラム文化」を読んだがほとんど理解できず、大川周明の「マホメット伝」もつまらなかった。

そもそも日本では、明治五年の銀座大火後、ロンドンやパリのようなヨーロッパの都市をモデルに、銀座には煉瓦街ができ、ガス灯も点って、馬車が走った。山田風太郎の傑作小説「警視庁草紙」「幻燈辻馬車」などの舞台である。
やがて鉄道馬車が走り、電車となり、そして銀座の下を地下鉄が通った。日本の都市はどこに行っても似たような西欧なのである。むろん、都市の景観美やその保全には、彼我に大きな意識の開き、落差があるのは言うまでもない。
また江戸時代以前の安土桃山の織豊期から、日本には「南蛮」文化が入っていた。南蛮とは西欧というより、ポルトガル、スペインのようなイベリア半島の南欧文化である。それは日本史の中のエキゾチシズムである。後に北原白秋は「南蛮」のエキゾチシズムに溢れた綺羅の詩語に目覚めた。
欧米人も作家のポール・ボウルズのように、北アフリカのエキゾチシズムに惹かれ、モロッコのタンジールに永住した者もいる。映画化された「シェルタリング・スカイ」や「雨は降るがままにせよ」「蜘蛛の家」はモロッコが舞台である。ロレンス・ダレルの「アレクサンドリア四重奏」(「ジェステイ-ヌ」「バルタザール」「マウントオリーブ」「クレア」)も好きな作品である。
ちなみにポール・ボウルズの元に、彼を敬愛するジャック・ケルアック、テネシー・ウィリアムズ、トルーマン・カポーティらが遊びに訪れるが、その後彼等はみな破滅主義的で、酒に溺れ、精神を患っていった。

さて、大学生の頃、オマル・ハイヤームの「ルバイヤート」(小川亮作訳・岩波文庫)を読んだ。その詩人とその詩集(四行詩)については、芥川龍之介や三島由紀夫の著述の中で知ったのである。また、たしか桜木健古の人生論の著述の中にもあったような気がする。
オマル・ハイヤームはペルシャの人で、西暦1048年の生まれとされている。数学者、天文学者であり、文学者で医学者、歴史学者で哲学者であった。
「ルバイヤート」の訳者・小川亮作は彼を日本で言うなら平賀源内のような万能の人とし、さらにペルシャのレオナルド・ダ・ヴィンチと評している。
ハイヤームはセルジュク朝のスルタン、マリク・シャーが建設した天文台の主席研究者として招聘された。彼は高精度で一年の長さを計算し、天文観測に優れた成果を上げ、今は失われたが精巧な天空星野図を作成した。また数学者として三次方程式一般の解法を考案し、さらに二項展開を発見、非ユークリッド幾何学を発展させた。オマル・ハイヤームはペルシャ、イスラム世界において、数学者、天文学者、詩人として著名であった。
四行詩をルバーイイと言うらしい。その詩集が「ルバイヤート」である。
「ルバイヤート」とオマル・ハイヤームが西欧に知られたのは、イギリスの貧乏詩人エドワード・フィッツジェラルドが、偶然に古書店で見出したイスラム四行詩の写本の山が発端である。彼はその中から鋭い詩人の嗅覚と勘で、ハイヤームの「ルバイヤート」を選び出したのだった。
フィッツジェラルドはこれを英訳し、1859年に自費でわずかな部数を出版したが全く売れず、古書店でわずか1ペニィで並べられた。これをイギリスのラファエル前派の画家で詩人のダンテ・G・ロセッティとその友人が手に取り、たちまちその価値を見出した。その一週間後、「ルバイヤート」の値段は1ギニィに跳ね上がったという。やがてイギリス、フランスをはじめ全欧、全世界でその詩は訳され読まれるようになった。このイスラム文化圏のエピュキュリアンは、近代詩と、おりからの象徴主義、耽美主義にも強い影響を与え、フランスの文学運動デカダンディスムにつながっていった。
日本では明治三十八年、蒲原有明がフィッツジェラルドの英訳を日本語に訳して紹介した。
泥沙坡とよ、巴比崙よ、花の都に住みぬとも、
よしや酌むその杯は甘しとて、はた苦しとて、
絶間あらせず、命の酒はうちしたみ、
命の葉もぞ散りゆかむ一葉一葉に。
蒲原有明はロセッティに傾倒し、象徴派の詩人として薄田泣菫とその人気を二分した。有明は北原白秋(1885年生まれ)や三木露風(1889年生まれ)らの詩人に強い影響を与えた。白秋らの南蛮趣味、異国情緒や、芥川龍之介(1892年生まれ)や佐藤春夫(1892年生まれ)らの異国趣味や、倦怠と憂鬱の艶やかな文体や詩語に、その耽美的象徴主義の影響は歴然である。
大正ロマンの代表的画家、詩人に竹久夢二(1884年生まれ)がいる。もの憂げで、憂鬱で甘美な風情である。彼と共に、少女たちに人気が高かったのは高畠華宵(1888年生まれ)、蕗谷虹児(1898年生まれ)がいる。
おそらく当時、彼等がその青春時代に夢中になったのが、「ルバイヤート」で、若者たちへの影響は単に甘美で耽美的詩文に留まらず、美術運動、芸術運動全体に及んだものと思われる。彼等の筆名への影響も見て取れる。
それはまさに、加藤まさを(1897年生まれ)の青少年期に与えた文学、芸術や詩や、美術の熱源であったのではなかろうか。文学や美術、芸術に関心のある若者たちを取り巻く時代の雰囲気、耽美的、異境のエキゾチシズム趣味が、そして「ルバイヤート」こそが、「月の沙漠」の詩想を生み出したに違いない。
彼の詩語は、その著作や画集の題名に使用された語彙にも特徴が明らかである。薔薇、虹、カナリア、合歓、揺籃…。砂漠を「沙漠」にしたのも彼の美的感性であろう。少女たちは彼の絵や詩に恍惚(うっとり)としたのである。

オマル・ハイヤームは詩うのだ。…人生は短い、急がなければならない、我ら、休息も断食もすべきでない…すぐに夜の帳(とばり)が降りる、星が瞬く。隊商(キャラバン)よ、駱駝たちを急がせよ。急いで砂漠を渡り、早く旅籠(サライ)に落ち着こう。妖艶な半裸の女たちのベリーダンスと酒を楽しもう、美姫に囲まれ美酒に酔い痴れよう、人生は短い、そして虚無なのだから…
以下は小川亮作の訳である。

時はお前のため花の装いをこらしているのに、
道学者の言うことなどに耳を傾けるものでない。
この野邊を人はかぎりなく辿って行く、
摘むべき花は早く摘むがよい、身を摘まれぬうちに。

あわれ、人の世の旅隊(キャラバン)は過ぎて行くよ。
この一瞬をわがものとしてたのしもうよ。
あしたのことなんか何を心配するのか? 酒姫よ!
さあ、早く酒盃を持て、今宵も過ぎて行くよ!

さあ、ハイヤームよ、酒に酔って、
チューリップのような美女によろこべ。
世の終局は虚無に帰する。
よろこべ、ない筈のものがあると思って。

めぐる宇宙は廃物となったわれらの體躯(からだ)。
ジェイホン(※河の名称)の流れは人々の涙の跡、
地獄というのは甲斐もない悩みの火で、
極楽はこころよく過ごした一瞬(ひととき)。

いつまで一生をうぬぼれておれよう、
有る無しの論議などにふけっておれよう?
酒をのめ、こう悲しみの多い人生は
眠るか酔うかしてすごしたがよかろう!

オマル・ハイヤームはイスラム文化史においては、まことに希有な、唯物主義哲学者で、快楽的、刹那主義的である。その厳格な宗教世界にあって、無神論的で実に壮烈な批判精神を持つ反逆者であった。しかし中東、北アフリカのイスラム教徒の多くは、詩人、数学者、天文学者、歴史学者、医学者のオマル・ハイヤームを尊敬し、その詩を愛誦し、朗唱もするのである。私はモロッコの食堂で、見ず知らずのオジサンたちにシシカバブや葡萄酒をご馳走になり、彼等の「ルバイヤート」の朗唱を聴かされたことがある。

ちなみにルバイヤートと名付けられた酒場やレストラン、葡萄酒がある。もうひとつ、「月の沙漠」に詩われる「朧にけぶる月の夜を」は、まさに湿潤な日本の風景であって、乾燥した中東の砂漠では月が朧にけぶることはない。月が陰るのは猛烈な砂嵐の夜なのである。