あれこれ疑う楽しみ

私は疑り深い性向である。偉い先生方の本を読んでいても、すぐ疑問が湧く。また、かつてNHKの「こどもニュース」でパパ役として子どもたちにニュースを分かりやすく説明して評判になり、今や引っ張りだこのIさんの解説も、それほど信用はしていない。Iさんの場合、「談合」の解説が、嘘つけ、だったからである。子どもに嘘を教えてはいけません。
例えば司馬遼太郎や歴史学者、日本語学者たちが、すでに本土では消えて久しい古代の「大和言葉、万葉言葉」が、今も沖縄に残されていることから、それらは五~七世紀頃に大和から沖縄の島々に移植されたものと推察していることである。本当であろうか。嘘つけ、である。
ろくな造船技術も航海技術も無かったことを考慮すれば、古代大和の人たちが黒潮に逆らって航海に出たとは考えにくい。逆であろう。もっとずっと古い時代、それらの言語の元はちっぽけで粗末な筏舟を浮かべて、黒潮に乗って島嶼伝いにやって来たのに違いない。刳り舟はない。大樹がなく、刳り抜くための鉄の手斧(ちょうな)のような工具もなかった。例えば沖縄に鉄が入ったのはかなり遅い。
漢字使用国で「訓読み」は日本でのみ使われている。訓読みはどこから来たかについて、畏敬する白川静先生も、司馬遼太郎も言及を控えた。
訓読み、古代大和言葉、「まほろば」の万葉言葉は、黒潮に乗って、島々を伝い、薩摩半島、大隅半島、足摺半島、紀伊半島、伊豆半島、房総半島などの浜辺に流れ着き、あるいはそれらの岬の突端に打ち上げられたのだ。彼等こそ原日本人に違いなく、縄文人だったに違いない。やがて韓半島から多くの渡来人たちが流入し、彼等が持ち来たった漢字と、その意味と、原日本人たちの言語が照らし合わされ、音声として当て字しながら「訓読み」と送り仮名が誕生したに相違ない。そう考えるのが自然だろう。

だいぶ以前、大きな水槽で錦鯉を飼っていた。早く池持ちになりたいものだと思っていたが、ついに叶わなかった。休日に何度か小地谷や山古志まで出かけた。四、五センチばかりの数千尾の幼魚が入れられた「無選別」の生け簀から、目を凝らしながらこれはと思うものを掬うのである。無選別と言っても、すでに錦鯉のプロたちが二度三度と選別した後の雑魚なのである。一尾五十円から百円なのだ。
薄く黄味がかった白地に、鱗の下に隠れた薄ぼんやりとした朱や墨を見ながら、これが後に成長して、どんな形や、どんな紅や黒墨が浮き出てくるのかを想定し、選び出すのである。私はこうして、ものの見事な「昭和三色」を見出したことがある。錦鯉に詳しくない方は、ぜひインターネットで「昭和三色」の画像を検索し、見ていただきたい。
話が迂遠になっているが、そもそもエッセイ散歩なのだということでお許し願いたい。…ちょうどその頃、錦鯉の写真集を眺めたり、多くの文献などを読み漁っていた。それらによると、鯉は中央アジアが原産地で、日本には中国大陸や韓半島を経て弥生時代に持ち込まれたと書いてあった。そんな馬鹿な。嘘つけ、である。
そもそも、現代の我々が生きた鯉を運ぶとき、大きなビニール袋に、その鯉が入れられていた(暮らしていた)水をたっぷりと入れ、酸素を注入して移動するのである。そんな大昔のちっぽけで不安定な船で、わざわざ大甕に入れて活魚を運んだと考えるのは愚かしい。そもそも野鯉(真鯉)は、大昔から日本の河川や湖沼に生息していたに違いない。…

さすがに今日では、もともと日本に野鯉がいたという説になっている。そんなの当たり前であろう。ちなみに中国から蓮魚やハクレンが、食用として生きたままで持ち込まれたのは明治の中頃で、いま利根川で飛び跳ねている大きな魚は、この蓮魚(ハクレン)である。ただし河口近くで飛び跳ねているのは海のボラである。
どんな動物でも草花でも樹木でも、突然変異というものがある。白い烏も白い鯰も、白い蛇も生まれる。桜も梅も変異する。特に桜は突然変異種や交雑種が出やすいらしく、今や約六百種を超えるという。
黒い真鯉も突然変異し、「葉白(ようはく)」が生まれたり、やがて白い鯉や緋鯉が出たり、さらに黒と汚い赤色の斑の鯉や、「緋写(ひうつり)」「浅黄(あさぎ)」「白写(しろうつり)」「葡萄」「変わり五色」「秋翠(しゅうすい)」などの突然変異が発見され、あるいは作られていったのだろう。意図的に様々な模様や色の鯉が作られていったのは、江戸時代に入ってからである。それらが「錦鯉」と名付けられて、大名や大身旗本の屋敷などの、大きな池水の観賞魚となったのは文化、文政時代のことらしい。
錦鯉もたくさん見れば、自然鑑識眼も養われる。錦鯉は「紅白に始まり紅白に終わる」と言うが、たしかに錦鯉の「紅白」はいかにも日本人好みである。しかしどんな見事な紅白でも、紅白だけでは錦の芸術にはならない。澄んだ池水の中を数十尾の様々な錦鯉が群れ泳ぐ様こそ、まさに一級の「錦」の芸術なのである。

次は馬の話である。現在残っている日本在来種の馬は、遺伝学的にモンゴル馬であると言う。多くの文献によると、日本列島にはそもそも馬はいなかったことになっている。なぜなら、縄文集落の遺跡から馬の骨が出ていないが、弥生時代以後の古墳時代後期になると、大量の馬の骨や馬具が発掘されることから、その頃に大陸や半島から渡来したものだと言うのである。本当であろうか。私に言わせれば、嘘つけ、である。
ろくな造船技術も航海技術もなかった時代に、現在の木曽馬かポニーほどの大きさの馬を乗せて、不安定な舟あるいは船で航海に出ただろうか。…気象風土は人の気性にも影響を与える。「小倉生まれで 玄海育ち / 口も荒いが 気も荒い」(吉野夫二郎作詞)…対馬海流と季節風に曝される玄界灘は意外に荒いのだ。対馬暖流は日本海で冷たい親潮とぶつかる。…
もし馬が船で渡来したとすれば、それは飛鳥時代後期から奈良時代に入ってからだろう。その頃も渡来の「今来(いまき)」の人の流入が続いていたのである。「今来の人」とは最近来た人という意味である。ちなみに飛鳥、明日香とは古代朝鮮(こちょんそん)語で「安宿(アスク)」であり、ふるさとの意である。また奈良(ナラ)は国の意である。「寧楽」もナラと読んだ。韓国の政党、ハンナラ党の、ハンは韓、ナラは国である。

縄文時代以前の原始日本の野には、小さな野生の馬がいたはずである。太古、日本海が湖だった時代もあったのだ。その後も日本列島のその一部は大陸とつながっていたのである。
馬は集団で移動する動物である。それらは縄文時代に「家畜化」されていなかっただけであろう。あるいは、それを捕らえ、馴致する必要も技術もなかったのだ。弥生時代後期から古墳時代に大陸や朝鮮半島から入ったのは、それら野生馬の捕獲、馴致、家畜化、騎乗の技術のみだったと考える。
また縄文集落跡からは犬の骨は発掘されているが、猫の骨は発見されていない。だから猫もいなかったとされている。これもおかしい。原始日本の山野に、数は極めて少ないながらも野生の猫(山猫)はいたはずで、犬のようには馴致、飼育されていなかっただけなのに違いない。対馬や西表の山猫は、孤島に取り残されたゆえに絶滅を免れたが、日本列島の山猫たちは絶滅したのではあるまいか。
そもそも犬は狼である。それは長大な時間をかけて馴致され、様々に交雑されて犬となったのだ。人に飼われる猫も、元はエジプトの山猫である。やがて長大な時間をかけて飼い馴らされ、様々な変異や交雑が行われ、中東を経て、中国大陸や朝鮮半島から「舟」か「船」で人に抱かれて入って来たものだろう。やがて本格の交易船では、鼠害を防ぐために猫が飼われた。荷揚げした倉庫でも猫を飼った。

現在の縄文時代の研究では、その遺跡から鹿の骨や馬の骨も発掘されている。つまり縄文時代に馬はいたということだ。それは家畜ではなく、狩猟によるものと考えられている。おそらく狩猟による食糧の確保は、さほど多くなかったのではあるまいか。原日本人はその食糧のほとんどを、採集に頼っていたものと思われる。
当時の野生馬の数もそう多くはなかったはずである。そもそも馬の源郷は比較的に乾燥した草原なのである。現代の日本でも国土の七割が山林である(ほとんど人工林だが)。日本は温暖で湿潤な山林地帯なのだ。しかし山林ばかりでは鷲や鷹などの大型猛禽類は、営巣ができても狩りができない。彼等の生息には野原のような広野や河原、浜辺が必要なのである。その野原、草原はごくわずかであっただろう。
馬はそこに生息していたのだ。草原が少ないということは、食糧も少なく、また天敵である狼からも全速力で走って逃れることに困難を伴ったであろう。そのような自然状況下での生息頭数や身体の大きさなのである。北海道の羆とカムチャッカの羆は、身体の大きさはカムチャッカのほうが二倍も大きい。本来は同種らしいが、餌の豊富さで身体の大きさが決まったというのである。
また「麓」という文字が林と鹿で構成されているように、鹿も山麓、山の裾野に生息していたのに違いない。天敵の狼もいて、その生息数も増えすぎることもなく自然に調整されていた。したがって餌を求めて山の中腹まで登る必要もなく、現在問題になっているような、低木の木の芽を食べ尽くしたり、樹皮を削ぎ取って食べる必要もなかったのだ。
ちなみに縄文集落の遺跡から、牛の骨はいまだ発見されていない。しかし私は牛も大陸や韓半島からの渡来ではなく、原始日本に野生の牛が生息していたのではないかと考える。おそらく草も豊富な低湿地帯である。やがて牛は小柄な馬より大きくて力も強く、神経質で癇の強い馬よりずっと温和しく我慢強いため、家畜化され車を引く交通手段ともなる。日本では馬車文化はほとんど芽生えなかったが、牛車(ぎっしゃ)は奈良時代後期には登場し、平安時代ともなると貴族の乗り物となったのだ。

現在の日本の在来種の馬は小柄である。弥生後期、古墳時代の馬も小さい。
「平家物語」時代の馬も小さい。当時の成人の男たちも概して矮躯で、平均が五尺余くらいだったと思われる。馬と人は釣り合っていたのかも知れない。
有名な義経軍の一ノ谷の合戦、あの鵯越逆落とし。鹿が降りられるのだから馬も大丈夫なはず、ソレってんで我先に駈け降りた。端から見ればこれが本当の「馬鹿だね~」…昔、二代目・桂伸治(十代目・桂文治)は、いたずらっ子のような目をくりくりさせながら、大ネタ「源平盛衰記」で鵯越の段をこう語った。「崖ってぇのは地べたが急に無くなっちゃうことで…」
鵯越は崖だったのである。本当は義経軍、ほとんど転けたか滑り落ちたに違いない。しかし、大柄で豪の者だった畠山重忠は小さな馬を可哀想に思ったのであろう。馬を肩に担いで駈け降りた。優しい良い奴だったのだ。そしてそれほど当時の馬は小柄だったのだ。
ちなみに、だいぶ以前のTV映画「ライフルマン」のチャック・コナーズは、かなりの大男だったため、現代の大きな馬に乗っても、足が地面に着きそうに見えた。ときに急峻な崖道を駈け下るシーンでは、チャック・コナーズと馬が一緒に走っているように見えたほどである。それにしてもチャック・コナーズは、実に個性的で渋い面構えで、格好良い役者だった。彼はもともとプロ野球やプロバスケット選手だったのだ。ああいう面構えの役者をまた見たいものである。