演歌と唖蝉坊

イベントに於ける私の師匠筋に当たる人は、白川良信(よしのぶ)という。「しらやん」とか「和尚」と呼ばれていた。浅草の寺の次男であるらしく、僧侶となれば良信(りょうしん)さんと名乗ったものと思われる。しかし彼は坊主にはならず(私が出会った頃はまだ独身で、実家の寺に暮らしていた)、舞台の演出の仕事を選んだ。主に歌手のコンサートやファッションショーの構成と演出を手がけ、合間にイベントの仕事をこなした。私は彼の下で百貨店や大型SCの開業式典、大宴会場でのプロ野球球団の壮行パーティ、企業のキックオフパーティ、プロゴルフの前夜祭、歌手のコンサート、ファッションショー等の助手的な仕事をし、彼の仕事を盗むように、企画、構成、台本、演出、実施運営を覚え、また教えてもらったのである。
ちなみに私の企画の師匠筋に当たる人は、もともとコピーライターだった沢竹良宗という人である。ソニーの大賀社長に可愛がられていた。愛すべきハッタリ屋で、彼と共に仕事をしながら、彼の企画ノウハウ、チャート図の作り方(論理的思考法)、コピー作りのコツを盗むように覚えたものである。二人ともなかなか奇人であった。

ある時、白やんから「津田のおやじ」の話を聞いた。「これがトンでもなく面白いオヤジでさ」と言うのである。津田耕次(耕治)という、クラウンレコードに籍を置く演歌歌手らしい。愛知の人で、もともと浪曲の出身という話だった。大阪の「とにかくトンでもないオヤジでさ…ド演歌よ、ド演歌! これが凄いのよ」と絶賛した。後に私は彼のLP盤を手にとって見、聴く機会があった。ジャケットを見ると、遊侠の津田耕次は実に獰悪な顔をしていた。幼い子が見たら泣き出すだろう。厳つい大きな顔、大きな口にがっしりとした顎、鋭い眼光、目の回りに彼の人生のすさみや憤怒が沈潜し、凄みがあった。その声は錆びて野太くドスが利いて、しかも実に伸びがあり、こぶしが利き、力があり、哀調うねる河内音頭と口説き節、あるいは説教節の流れを受けた歌祭文である。「歴史的」ド演歌であり、これは貴重な記録であろう。白川は彼の歌の実力に痺れ、下層の大衆芸能に伝わる芸の凄みと、この人物の語りや人柄に圧倒されたのであろう。常に人を圧する奇人ぶりの白やんだが、津田のオヤジに圧倒されたらしいのだ。
ちょうどその頃、友人が図書館で見つけたLP盤をカセットテープに録音し、それを私にくれた。「AZENBOの世界~添田唖蝉坊作品集」というタイトルである。彼はやはり図書館で見つけて録音したマリ・デュバの「シャルロットのクリスマス」のテープを、私にくれた人である。これは昨年のクリスマスの時「マリ・デュバ」と題して既に書いた。
「AZENBOの世界~添田唖蝉坊作品集」は、明治三十二年から大正十四年までの唖蝉坊の代表的な演歌を集めたもので、歌っているのは、あの津田耕次であった。おそらく彼は、津田耕次にはほとんど関心がなく、添田唖蝉坊に強く惹かれたものと思われる。マリ・デュバといい、唖蝉坊といい、このようなものに関心を寄せ、見つけ出すような若者(かつては二十代の青年だった)は、実に希少価値であり、奇人と言うほかない。私は彼のお陰でマリ・デュバも添田唖蝉坊も初めて知ったのである。当然のことだが、その頃は私も若者だったが、若者とは生意気なくせにその知識教養たるや実に乏しいものなのである。

話を戻す。添田唖蝉坊のことである。私は津田耕次の歌う「AZENBOの世界」にすっかり魅了され、その後唖蝉坊について調べ始めた。と言っても簡単なものである。昭和五十七年に刀水書房から「添田唖蝉坊・知道著作集」が刊行された。全五巻で、別巻に「流行歌・明治大正史」がある。箱入りの高い本で、新刊では手が出せず、これを古書店で時間をかけて買い集めた。その第一巻が「唖蝉坊流生記」であり、唖蝉坊の自伝なのである。これをそのまま追っては意味がない。
ある人物の人生が他の人生とどのように密接に交錯し、あるいは全く無関係にすれ違ったか、歴史と人物を複層的、複眼的に見てゆきたいと思うのである。既に私は以前に、唱歌「花」の作詞者・武島羽衣と添田唖蝉坊を浅草で交錯させたことがある。その時は「羽衣伝説」と題した。羽衣と唖蝉坊が実際に交錯したかどうかは問題ではない。私は彼等の同時代性を知り、勝手に交錯したように想像したのである。
ひとつの例を挙げる。以前、石川啄木関係の本を読んでいたら、彼の小樽新報時代に東京から西川光二郎が演説にやって来たことが書かれていた。演説を聞いた啄木は強い感銘を受け、そのあとで西川と親しく話す機会を得た。啄木はこの革命家に強い影響を受け、社会主義に目覚めるのである。
しかし西川光二郎関係の書物には、東北、北海道への演説旅行は書かれていても、そこで啄木に出会ったことは記されていないのである。
野口雨情を調べていたときのことである。彼の札幌時代、つまり北鳴新聞社時代、東京から西川光二郎が遊説にやって来た。雨情は西川の演説に感動し、そのあと親しく話す機会を得た。革命家・西川光二郎との出会いによって、雨情は社会主義に強い関心を抱くようになった。西川光二郎関係の書物には、東北、北海道への演説旅行は書かれていても、そこで雨情に出会ったことは記されていない。啄木と雨情が西川の演説を聞き、彼と親しくなったのは同じ時期であろう。
「唖蝉坊流生記」に、西川光二郎と唖蝉坊の二人で東北・北海道に遊説の旅に出たことが書かれている。ところが「唖蝉坊流生記」には啄木や雨情に出会ったことは書かれていない。また西川関係の書物には、この東北・北海道遊説旅行に唖蝉坊が一緒だったとは記されていない。二人は同じ会場(狸小路の札幌亭)に迎えられ、五百名の聴衆を前にして西川が演説し、唖蝉坊が演歌を歌ったのである。さらに「小樽新聞の主筆碧川企救男が札幌まで随いて来て演壇にも立った」とある。だから小樽で演説し、札幌に移動したわけである。「その時碧川の細君がしきりに、東京へ出るやうに碧川にすすめてくれと言ってゐたりした」という記述もある。碧川企救男に細君も一緒に随いて来たわけである。この「碧川の細君」とは「碧川かた」のことであり、童謡「赤とんぼ」で知られる三木露風の実母である。このことと碧川企救男については、今年の三月「母」と題したエッセイで触れた。…碧川かたは、東京に戻りたかったのだ。あるいは主人・企救男の才能を、東京で発揮させたかったのであろう。
以前「流浪の人々」というエッセイを書いた。
名はなんと言ひけむ/姓は鈴木なりき/今はどうして 何処にゐるらむ
…名は何と言ったっけ、姓は鈴木だった。今どこでどうして暮らしているのだろうか…
石川啄木の「悲しき玩具」の中に「鈴木志郎」という名が出てくる。この鈴木と啄木の出会いは小樽新報時代である。野口雨情夫妻と鈴木志郎夫妻が出会うのが札幌の北鳴新報社時代である。雨情と鈴木志郎は同僚であり、共同の家に暮らしていた。この頃、雨情は女の子を生後七日で亡くしている。これが後に「しゃぼん玉」の詩になった。雨情が鈴木夫妻から聞いた「きみちゃん」という幼子との別れは、後に「赤い靴」の詩になった。その後志郎は小樽新報に移り、啄木と同僚になるのである。
おそらく、西川の演説と唖蝉坊の演歌を、鈴木志郎も聴いたにちがいない。しかし啄木の文にも、雨情の伝記にも、唖蝉坊の名は出てこない。「唖蝉坊流生記」には碧川「かた」の下の名と三木露風は出てこない。もちろん知らなかったのであろう。啄木の口から碧川企救男の名前は出てくるが、碧川企救男から啄木の名は出てこない。啄木は何かの腹いせに「(小樽新報なんか)辞めて、碧川のいる小樽新聞に移ってやる」と言ったのである。…このような交錯と、すれ違いと、同時代性と社会と文化と歴史を、「唖蝉坊流生記」で彼の人生をなぞりながら、あることないこと書いてみようと思うのである。でも小説ではない。ノンフィクションでもない。研究書でもない。複眼の想像にすぎない。

新型インフルエンザ騒ぎの昨今である。唖蝉坊の大正九年のこんな歌を紹介したい。題して「新馬鹿の唄(ハテナソング)」である。

議員議会であくびする    軍人金持ちと握手する
インフルエンザはマスクする 臭いものには蓋をする ハテナハテナ
労働問題 種にして    本屋学者は繁盛する
活字拾いの職工は    青くなってる痩せてゐる ハテナハテナ

二年半ほど前、真宗高田派の学僧と話す機会があった。雑談中、私は彼に「(蓮如上人の)お文(御文章)は演歌のルーツですね」と話柄を向けた。彼は「明治の壮士たちの演説が演歌のルーツでしょう」と言った。さらに「浪曲なんかもそうでしょうね」と言葉を継いだ。その言外に、「お文」と演歌は違うという否定が込められていたように思う。私の言い方も悪かったが、蓮如が始めた「お文・御文章」は演歌のルーツの「ひとつ」であると断言したい。無論、自由民権壮士たちが度々演説を中止させられて、「それでは演説を止めて歌いましょう」とデタラメに節をつけて喚いたのが「演説歌」「演歌」となったという巷間よく伝えられている話を、私も否定しない。しかしこれは俗説なのである。
いわゆる「壮士演歌」は集会条例公布後の明治十年代後半に発生した。浪花節(浪曲)の歴史は比較的新しく、明治五年頃なのである。壮士演歌発生時と、さほど時期は離れていない。演歌のルーツは多様、複数あって、ずっと古い。
ルーツのひとつは和讃であり、平安時代に遡る。仏陀の言葉や教典、教義を日本語で七五調にととのえ、節をつけて讃え歌った。親鸞も和讃を作って布教の用とした。
詠歌もルーツのひとつである。無論、仏教音楽で、喜びや悲しみ、悼み、祈り、法恩、法悦を三十一文字の和歌に仕立て、節を付けて唱えた巡礼歌である。この和讃と詠歌を総称して御詠歌ということが多い。
親鸞から数えて八世の蓮如は、「お文」あるいは「御文章」といわれる平易な文章の手紙を、本寺から離れた土地の布教に使った。おそらく本邦初の通信教育(布教)である。お文をもらった寺僧は、いつしかこれに節を付けて、歌うように門徒たちに読み聞かせた。節回し付きの手紙の読み聞かせは、話の分かりやすさと相俟って、門徒たちの耳に入りやすく、以後浄土真宗は急速にその教勢を拡大した。「お文」は演歌のルーツのひとつなのである。そこから芸能化し説教節、口説き節になっていく。

演歌のルーツのひとつに祭文がある。無論、神事や仏事に奉られ読み上げられるのが祭文である。山伏たちは錫杖をならしてリズムをとり、祭文を読み上げた。それに節が付くようになった。祭文語り、歌祭文と呼ばれる大道芸能が生まれた。一方で浄瑠璃に流れ込む。また歌祭文は後に新聞(しんもん)読みとも呼ばれるようになる。
近松半二の世話浄瑠璃、世話狂言に名高い「新版歌祭文」がある。大坂板屋橋南詰めの油問屋の娘お染めと、丁稚久松の心中事件を扱ったものである。その「野崎村の段」の舞台は野崎観音である。

〽切っても切れぬ恋衣や / 本の白地をなまなかに
お染は思ひ久松の / 跡を慕うて野崎村 …

これは後の昭和初期、東海林太郎の歌う「野崎小唄」になった。

〽野崎参りは 屋形船でまいろ / お染久松 切ない恋に
残る紅梅 久作屋敷 / 今も降らすか 春の雨

どこか陰々滅々たる御詠歌の持つ切なさや哀調は、説教節、歌祭文にも流れ込む。説教節や歌祭文、新聞読みは河内音頭に流入し、一方で明治初期に大坂の祭文語りの芸人・浪花伊助の新しい芸風が人気を博し、浮かれ節とか浪花節と呼ばれるようになる。

しばらく脱線したい。だいぶ以前、何度か地方で村田英雄のコンサートの仕事をした。私は空港や駅頭、船着き場まで彼を迎えに出て、腰を直角に折って挨拶した。黒いスーツに身を包んだ何もしない付き人や取り巻きを大勢引き連れて、彼はやって来た。
スタッフ全員が彼を「御大(おんたい)」「先生」と呼んだ。リハーサルや本番の時、楽屋に迎えに行った。私は和室の楽屋の入口近くの畳に正座し、両手をつき「先生、よろしくお願いいたします」と深々と頭を下げた。「おう」と彼が立ち上がると、何もしない付き人や取り巻き連は、楽屋の畳に正座のまま両手をつき「いってらっしゃいませ!」と一斉に深々と頭を下げて見送り、そのあと楽屋を出た御大の後ろにぞろぞろと付き従い、舞台袖まで移動するのである。
さて私は舞台ソデで村田英雄の歌を聴いた。素晴らしい声であり、素晴らしい演技力である。無論、彼が浪曲師の出であることはよく知られている。「人生劇場」「王将」「無法松の一生」「人生峠」「夫婦春秋」「皆の衆」と聴くうち、これは歌祭文だ、説教節だ、いや蓮如の「お文」だと確信した。

〽皆の衆 皆の衆
嬉しかったら 腹から笑え
悲しかったら 泣けばよい
無理はよそうぜ 体に悪い
洒落たつもりの 泣き笑い
どうせこの世は そんなとこ
そうじゃないかえ 皆の衆

洒脱な僧侶が満面に笑みを浮かべて、少しばかり節をつけて聴衆に語りかける。僧侶の明るい笑みが自然に聴衆の顔にも移る。「なあ皆の衆、嬉しいときは腹から笑わっしゃい。悲しかったら大いに泣きなされ。自分の正直な気持ちを押し殺しては体に障るぞよ。なあ皆の衆、泣くも笑うも洒落のつもりでおりなされ。どうせこの世はそんなところじゃと思いそうらえ。仮のすまいと思いそうらえ。自分に素直でいなされや。そうじゃないかえ皆の衆…皆の衆の本当のすまいはの、極楽浄土にあるのじゃぞ…」

「皆の衆」の作詞家・関沢新一は、映画の脚本や写真家としても活躍した多才な人だった。彼の宗旨が何であったか知らないが、関西、京都の人であったことを思えば、東西本願寺のお文(御文章)や、説教節、歌祭文の濃密な文化圏に育ったということであろう。他に彼の著名な詞では村田の「姿三四郎」、美空ひばりの「柔」、水前寺清子の「大勝負」、北島三郎の「歩」、舟木一夫の「銭形平次」等がある。

〽肩で風きる 王将よりも
俺は持ちたい 歩のこころ
勝った負けたと 騒いじゃいるが
歩のない将棋は 負け将棋
世間歩がなきゃ なりたたぬ …

さて、添田唖蝉坊の壮士演歌のことである。実は自由民権運動の壮士たちが演説に替えて演歌を始めた頃は、自由民権運動が権力の弾圧と吸収・懐柔策により、運動自体が変質し、分裂解体し、挫折していくのと軌を一にしている。
壮士演歌の全盛期は明治二十年代前半だが、自由民権運動が国権派と民権派に分裂したように、壮士演歌も政治運動派(政治派)と歌の読み売り派(演歌派)の二派に分かれていく。
やがて唖蝉坊も粗野な壮士たちの政治(選挙)運動や壮士的な武骨さから距離を置き、純粋演歌を目指すようになる。と言っても、唖蝉坊は社会主義に目覚め、弱者に連帯の手を差し伸べ、歌に詞に改良や工夫を凝らし、ユーモアと諧謔味に加えて哀調を帯び、現代の演歌に近いものを作り出していく。
そして何より、唖蝉坊の演歌はプロテストソング、メッセージソングなのである。明治三十二年の「ストライキ節」、三十八年の「チリップチャラップ節」「ラッパ節」、三十九年の「あゝ金の世」等である。特に「あゝ金の世」は素晴らしい。唖蝉坊も長く関西を流し旅しており、自然に説教節や歌祭文を吸収したものと思われる。

(8年ほど前に書いた「唖蝉坊流れ歌」の冒頭部分を抜粋したものである。)