たまに競馬の話

私の一連のメールエッセイで、政治や経済、環境問題の話は、読み手にそれぞれの主義主張があるから、当然あまり評判がよろしくない。「談合の何が悪い」や船場吉兆事件に際して書いた「残すな」、伊勢の赤福事件の際の「もったいない」「食育」等のエッセイや、某週刊誌の中吊りコピーを模した「週刊辛潮」等である。
また自由民権運動や私擬憲法に取り組んだ千葉卓三郎や演歌師の添田唖蝉坊、アナキスト作家の大泉黒石などの人物伝や近代史の話は甚だ評判が悪い。先に「そのメール、不評につき」に書いたとおり、漢字が多く、近代史そのものも何故今さらと、よく理解しがたいらしい。
最も評判が良いのは競馬の話である。しかもその支持者のほとんどは、競馬をよく知らない方ばかりなのだ。おそらく、馬券をよく買われるような日本の競馬ファンは、私の書くような競馬エッセイにはあまり興味を示すことはないだろう。彼等には過去の馬の話や雑学など、何の役にも立たないからである。彼等が知りたいのは、次の週のレース予想であり、必勝馬券術なのだ。それが日本人の競馬観の特質を示している。
この半年ばかりの間に、何本かの競馬エッセイを書いた。みな昔の馬の話である。「怒濤の伝説」のヒカルイマイ、「キーストン」「カツラノハイセイコ」「テスコガビー」「横山典弘」「歌枕『まちかね山』」などである。再び、これらの馬の話を重複させて競馬の話をしたい。

ひところ日本のサラブレッドは、年間一万二、三千頭も生産されていた。現在は八千頭余りである。その八千頭のうち三千数百頭がJRA中央競馬に登録され、残りが地方競馬に行く。売れ残っても血統が良いとかの幸運で繁殖馬として牧場に残る馬たちはごく少数である。売れ残った二流三流血統の馬たちは食肉業者に売られていく。ハルウララのように格安で高知競馬場あたりの馬主に買われた馬は、実に幸運と言わねばならない。彼等は連戦連敗を続け、生涯百戦前後も走らされるのである。スピード不足の分、故障することも少ない。連敗記録で有名になり、引退して老後を送ることになったハルウララは、実に希有な幸運の馬なのである。
生産調整が進む一方、良血種牡馬の種付け料は上がり、受胎率50、60%のサラブレッド生産は危険すぎて、家族経営の零細兼業牧場、三ちゃん牧場は成り立たなくなった。彼等が種付け料の安い種牡馬の産駒を生産しても、ほとんど市場で売れ残るからである。種付け料が一千万円、二千万円でも、高額の種牡馬ほど人気が集まり、その仔らは良血馬として数千万円で取引される。年に数頭は億の値がつく。
かつてハイセイコーの父チャイナロックは性豪と呼ばれたが、産駒に屑馬が少ない彼は、年間九十頭もの繁殖牝馬を集めたからである。彼の種付け料は百万円くらいだったと記憶する。並の種牡馬で、平均四十、五十頭の繁殖牝馬を集める時代だった。
しかしサンデーサイレンスの登場以降、人気種牡馬は年間二百頭もの繁殖牝馬を集めるまでになった。一極集中現象である。サンデーサイレンスは既に亡いが、ひところ、出馬表を眺めると、例えば出走馬十六頭のうち八頭がサンデーの仔で、四頭が種牡馬となったサンデー産駒の仔なのである。残りの四頭のうち三頭は母の父がサンデーサイレンスだったりした。今年の日本ダービーもサンデーサイレンス系だらけで、優勝馬は横山典弘騎乗のサンデー系のロジユニヴァースだった。
そこに現代日本人の特質を見ることができる。TV芸能界をジャニーズ事務所と吉本興業のタレントが席巻するに似て、一極に集中し、すでに多様性を失ったかのようである。
しかし、このような血の一極集中はイギリスにもあった。「セントサイモンの悲劇」という歴史的事象である。名馬・名種牡馬セントサイモンの血が、大繁栄の果てにある臨界点を迎え、突然競馬の世界から消え去ったという歴史を…。

もはやサラ系の三流血統で、雑草、風雲児と呼ばれたヒカルイマイの様な二冠馬が、日本の競馬界に誕生することはもうあるまい。またカツラノハイセイコのような馬がダービーを勝つことも、もうあるまい。このような大レースを勝つ馬は、父母ともに超一流血統で、高額の馬ばかりの時代になったのである。
生まれた時から、スタート時から格差のついた社会の固定化は、今日の日本の、人間の世界ばかりではなく、馬の世界にも見られる現象というわけである。
さて、馬の才能のことである。カツラノハイセイコを例にする。彼は当時内国産種馬はとしては種付け料が八十万円の、ハイセイコーの仔として生まれた。この種付け料は内国産としては高く、平均よりは下の値段である。母は不受胎続きの、二流半か三流の馬である。しかもカツラノハイセイコは父に似ず、期待を裏切る貧弱な馬体の馬であった。
おそらく、彼にあの激しい狂気がなければ、ダービーも天皇賞も勝つことはなかったであろう。あるいは彼にあの激しい狂気がなければ、皐月賞、有馬記念、宝塚記念も勝っていたかも知れない。
名手・河内洋騎手に「恐ろしい馬」と言わせたカツラノハイセイコの狂気こそが彼の潜在能力を爆発させたのだ。また下手をすれば彼の狂気は、そのエネルギーを費消し尽くし、その潜在能力が全く減殺され、未勝利馬で終わったかも知れないのだ。優れた才能が、その狂気ゆえに発揮されることなく、未勝利のまま消えた馬たちは、実に夥しい数にのぼることだろう。
サクラショウリというダービー馬も狂気の名馬であった。彼がカツラノハイセイコと違っていた点は、良血馬で、見るからに均整の取れた俊敏で柔軟な馬体と、才気走っていたことであろう。
概してパーソロン産駒は大人しく、素直な馬が多いと言われていたが、サクラショウリほど激しい気性の馬は珍しく、鞍上の小島太騎手が取る手綱は、いつもその狂気に翻弄されていた。しかしそのサクラショウリの溢れるような素質から、彼が未勝利で終わることは考えられなかった。誰もが早い時点で、必ず大きなところを勝てる馬だと期待していたのだ。
狂気と言えば何かおどろおどろしく恐ろしいが、競馬界の人々はその狂気を、優しく微笑みながら「おテンテン」と語るのだ。「あの馬は、おテンテンだから…」。
イシノヒカルという馬も典型的な「おテンテン」だった。彼は本馬場に入場するや、スタンドの大観衆とその大歓声に機嫌を損ね、目を血走らせターフに意固地に四本脚を突っ張って全く動かなくなった。こうなったら厩務員が曳き綱を引っ張ろうがテコでも動かず、人間の命令など全く無視するのである。
そんなイシノヒカルの意固地で「おテンテン」なヤンチャぶりを、騎手の増沢末夫は叱ったり無理に促そうとはせず、馬上でニコニコしながら気のすむままにさせた。こうして機嫌を直したイシノヒカルは、後方から一気の追い込みを決めて、菊花賞と有馬記念を連覇した。「おテンテン」には付き合い方があるのである。イシノヒカルと騎手や厩務員が喧嘩ばかりしていたら、おそらく彼は未勝利馬で終わっていたであろう。

キーストンやテスコガビーはゲートが開いた直後から先頭を走っていた。逃げ馬である。しかし彼等は逃げようとして先頭に立ったのではない。他とは比較にならぬ絶対スピードが、自然に先頭に立たせたのである。
そしてキーストンもテスコガビーも競馬を理解し、人間の指示を素直に聞く実に賢い馬たちであった。しかも彼等は我慢強さも持っていた。彼等は「おテンテン」なところは微塵もなく、その才能を減殺するこれといった負の要素もなく、その絶対スピードで勝ちまくったのである。しかもキーストンは美しく柔らかく飛ぶように素軽く、テスコガビーは漆黒で、牝馬ながら牡馬と見まがうほど逞しく柔らかく、均整の取れた馬であった。
ところがテスコガビーとの世紀の対決を制したカブラヤオーは違っていた。彼はフランスの至宝シカンブルの仔で種牡馬実績のない父ファラモンドと、二流血統の母カブラヤの間に生まれた。その馬体は不格好な「背垂る」のうえ、荷役馬のように太い首差しで、市場で売れ残り、母馬の馬主が仕方なく「主取り」で引き取ったような馬であった。
デビュー戦はダートの短距離レースで、茂木厩舎の若い菅野澄男騎手と臨んだが全くの人気薄だった。彼等は馬群から離れた最後方を走っていた。しかし直線だけで一気に追い込み、良血で評判の高かった1番人気のダイヤモンドアイの鼻差の2着になった。
このヒカルイマイのような「後方一気」のレースぶりは強烈な印象を残したものの、2戦目も5番人気でしかなかった。鞍上の菅野とカブラヤオーは、ゲートが開くやいなや先頭に立ち、そのまま後続馬に並ばれることなく圧勝した。それにもかかわらず、3戦目も8番人気に過ぎなかった。相手が強くなったことと、やはり不格好な馬体だったからである。しかし彼等はスタートから先頭に立ち、そのまま6馬身差で逃げ切った。
年が明けたジュニアCから、茂木厩舎の主戦騎手・菅原泰夫が手綱を取った。菅原は出鞭をくれて先頭に立つと、10馬身差の圧勝劇を演じてクラシック候補の一番手に踊り出た。その後もテスコガビーに一度だけ並ばれた以外は、全てのレースで後続馬を寄せつけずに先頭を走り続け、皐月賞を完勝、NHK杯を圧勝、ダービーを8連勝で制覇した。
カブラヤオー引退後に菅原が告白した。「カブラヤオーはとても臆病な馬で、他馬に横に並ばれただけで、体を固くして怯えるんだ。馬群に囲まれたらお終いというような馬だったんだ。だから馬群から離れた最後方から行くか、横にも前にも馬がいない先頭を走るしかなかったんだよ」…
出鞭を喰らって飛ばしに飛ばしても、カブラヤオーには、父から受けた長距離馬としてのバテないスタミナと、肉体の限界を超えても我慢できる「底力」と、母カブラヤの父ダラノーアの類い希な中距離馬のスピードを受け継いでいたのである。
カブラヤオーはその絶対スピードで先頭に立って逃げた馬ではなく、騎手の作戦で先頭に立つよう逃げさせられた馬だったのだ。彼の潜在的な才能は、菅原や菅野の博打的な作戦が引き出したものであって、もしかするとその臆病さ故に馬群にもまれてズルズルと後退し、未勝利馬で終わったかも知れない馬なのである。あるいは「主取り」もされなければ、その不格好な馬体故に、食肉用に売られていたかも知れなかったのである。

(この一文は2009年8月3日に書かれたものです。)