何をかいわんや

津波は、大津波は、ザブーン、ドドーンとやって来るのではない。海が、目の前の海が、その総量が、みるみるうちに膨らみ、膨らんだまま町を飲み込み、押し流すのだ。
平安時代の貞観年間(869年)の大地震は、その震源地が先の大地震と近い。貞観大津波は、低い雷鳴のような海鳴りとともに潮が沸き上がり、川が逆流し「去海数千百里」が大海原になったと記録されている。陸奥国の中枢多賀城も飲み込まれた。その報せを受けた朝廷は紀春枝(きのはるえだ)を陸奥国地震使に任じ多賀城に遣わした。貞観大津波は優に海抜三十メートルを超えていたらしい。
明治二十九年(1896年)の三陸地震の震源地も貞観地震とほぼ同じである。この時の大津波は海抜三十八メートルに達した。昭和八年(1933年)の三陸地震もほぼ同じ震源地である。このときも大津波が起こり、その第一波は三十分後に押し寄せている。
私は少年時代に塩釜でチリ津波を体験している。住まいは高台にあったので実害はなかった。貞山運河も溢れた跡が残り、街に下ると商店街に漁船が打ち上げられていた。材木屋を営んでいた同級生の家では、店の材木のほとんどが流出し、旅館を営んでいた友人の家は一階が完全に泥水に浸かっていた。塩釜は松島湾の宮戸島、寒風沢島、桂島が自然の防波堤となって、押し寄せる津波も低く被害は少ないほうなのである。野蒜、矢本、石巻、女川や、気仙沼、大船渡、釜石などの三陸沿岸は大きな被害を出した。

先の東北地方太平洋沖地震の発生直後、大槌町の加藤宏暉町長は、部課長等幹部職員六十名を集め緊急対策会議を開いた。やがて避難を始めたものの膨らんだ海に飲み込まれて、幹部職員等とともに亡くなっている。地震発生後、ほぼ三十分である。亡くなられた方々に深沈とした哀悼の念を抱くと同時に、私は怒りすら覚える。おそらく緊急時における防災・災害時対応マニュアルがあって、その手順通りに動いたに違いない。先ず被害状況の把握につとめるべく、各担当者の連絡体制を確認すべく…と会議を開いていたのだろう。彼らはマニュアルに殉死すべきではなかったのだ。
大槌町は明治三陸津波の際に九百人が亡くなっている。昭和八年の記録も残っている。加藤町長の六十九歳という年齢からすれば、チリ津波のとき彼は十八歳なのである。そのおり町は八十戸を流失している。彼はその時の記憶を呼び覚まさなかったのか。先ずは職員等を叱咤し、住民を疾呼促し、高台へ山へと避難誘導すべきだったのではないか。…あらゆるものが流失したが、大槌湾に浮かぶ「ひょっこりひょうたん島」のモデル蓬莱島は、形をそのまま残して浮かんでいる。
石巻の大川小学校では、百八名の全校児童の七割に達する七十四名と、十一名の教師のうち十名が亡くなった。地震直後、教師たちは児童を校庭に整列させ、教室から逃げ遅れている子や、はぐれた子がいないか点呼を取り、怪我をしている子はいないかと、その無事を確認したのだろう。さらにどこに避難するかを協議した。学校の裏山は斜面の道も険しく細い。北上川の土手の中でも少し小高い新北上川大橋の右岸に、児童の列の前後左右に教師が付き添い引率した。高台とか広い河川敷とか、マニュアルに従ったのであろう。しかし高く膨らんだ海は真っ先に北上川を遡り、地震発生から約三十分後に、そこに向かう彼等を正面から飲み込んだのである。
私はイベント屋である。イベント前に必ず実施運営マニュアルを作成する。進行・運営の細々としたことはもとより、現場のあらゆる事態の想定をしておくのである。しかし想定外のことは常に起こりうる、というのも想定の中にある。その際、マニュアル至上主義は捨てなければならない。マニュアルから自由でなければならない。マニュアルはあくまで準備と心構えであり、その手順の指針に過ぎない。常に、瞬時に、臨機応変に対処すべきなのである。

寺田寅彦の主な研究分野は地球物理学であった。その死の三年後に「天災と国防」が刊行された。関東大震災、昭和八年の三陸大津波、九年の函館大火、浅間山噴火など、地震、津波、噴火等に関する随筆である。
「天災の起こった時に始めて大急ぎでそうした愛国心を発露するのも結構であるが、昆虫や鳥獣でない二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発露にはもう少しちがった、もう少し合理的な様式があってしかるべきではないか…」
「…新聞で真っ先に紹介された岸壁破壊の跡を見に行った。途中ところどころ家の柱のゆがんだのや壁の落ちたのが目についた。…石造りの部分が滅茶滅茶に毀れ落ちていた。これははじめからちょっとした地震で、必ず毀れ落ちるように出来ているのである。…この岸壁も、よく見ると、ありふれた程度の強震でこの通りに毀れなければならないような風の設計にはじめから出来ているように見える。設計者が日本に地震という現象のあることをつい忘れていたか、それとも設計を註文した資本家が経済上の都合で、強い地震の来るまでは安全という設計で満足したのかもしれない。地震が少し早く来過ぎたのかもしれない。」…「強い地震が来るまでは安全」とは、まるで原発の設計者とその安全神話を強烈に皮肉ったかのようである。千二百年に一度が、存外(想定外)「早く来過ぎたのかもしれない」…と。
「…関東大震災のすぐあとで小田原の被害を見て歩いたとき、とある海岸の小祠で、珍しく倒れないでちゃんとして直立している一対の石灯籠を発見して、どうも不思議だと思ってよく調べてみたら、台石から火袋を貫いて笠石まで達する鉄の大きな心棒がはいっていた。こうした非常時の用心を何事もない平時にしておくのは一体利口か馬鹿か、それはどうとも云わば云われるであろうが、用心しておけばその効果が現れる日がいつかは来るという事実だけは間違いないようである。」
「ものをこわがらなさ過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。」…まるで今の放射能や原発ヒステリーを言っているかのようである。

「…確かに「飛行機はそう落ちるもんじゃありませんよ」という言葉は事実であろうが、それは航空機事故の体験者には簡単には通じないし、また「落ちた」ことも事実で、また「将来、落ちる」ことも事実なのである。「大日本帝国号」という飛行機は確かに二十八年前に墜落し、何百万という犠牲者を出しただけでなく、周囲一帯に恐るべき損害を与えた。一体なぜ落ちた。…一航空機の墜落事故すら、さまざまな要因が重なりあって、簡単に解明できない場合がある。まして「大日本帝国号」ともなれば、無限といってよいほどの要因が重なりあっているであろう。しかし本当に将来二度と墜落すまいと思うなら、この要因の一つ一つを洗い出して検討していく以外に方法がないと私は思う。…」
この一節は山本七平の「ある異常体験者の偏見」の最初の章にある。山本はこの後に「一下級将校の見た帝国陸軍」を上梓した。彼が追求してきたことは、日本軍とは何だったのかということであり、その軍組織、とりもなおさずその思考図式はどういうものだったのかという検証であった。山本は日本軍の「思考図式」を日本人特有のもの、実に「日本的」なものとして捉え、認識しているのだった。それは帝国陸軍や海軍が滅んだ「戦後」も続いて日本人の中にあり、そして「今日」も続いている日本的思考図式なのである。つまり日本人の思考図式の中に潜む、ある種の諦観や投げ遣りにも似た陥穽である。
以前私は「思考停止」というエッセイで山本の「一下級将校の見た…」に触れた。その六ヶ月前の梅雨時、私はあるイベントに携わり、そのおりに「それならば何をかいわんや」と思い、直後に「思考を停止」した。それは私が作成した実施マニュアルを元に行われた最終会議のことである。雨天対策とそれに応じた物理的・時間的・現実的な実施計画なのだが、私が主催者のU氏、M氏やプロデューサーのN氏から求められたのは、槍が降ろうが何が降ろうが全てのプログラムを実施することなのであった。それは無理というものである。しかしその実現と解決策として彼らが強調したのは、天候という不確定要素にあえて目をつむり、たとえ最悪の目が出ても、それを補う精神力や気魄(演技)で乗り切ることだったのである。何があろうと「全てを実施」が決定なら「何をかいわんや」である。「無理」とは合理的ではないことなのだが、この「無理」を実施スタッフは行わなければならないのである。ここでマニュアルを作成する私は「思考停止」する。実施スタッフもまた「思考停止」する。命じる者の頭も「思考停止」するのである。

…「戦闘機の援護なく戦艦を出撃させてはならない」と言いつつ、なぜ戦艦大和を出撃させたのか。「相手の重砲群の壊滅しない限り突撃をさせてはならない、 それでは墓穴にとびこむだけだ」と言いながら、なぜ突撃を命じたのか。…戦艦大和の最後は、日本軍の最後を、実に象徴的に示している。出撃のとき、連合艦隊参謀の説明に答えた伊藤長官の「それならば何をかいわんや。了解した」という言葉。…よく言われる「客観情勢の変化」は実は遁辞にすぎない。情勢はある一点で急に展開してはいない。それはむしろ発令者の心理的転回のはずであり、ある瞬間に急に、別の基準が出てくるにすぎない。…(「一下級将校の見た帝国陸軍」)
制空権も制海権もない海への戦艦大和出撃命令に対し、伊藤整一第二艦隊司令長官は七千人の部下を犬死にさせるものとして反対した。しかし「一億総特攻の魁になっていただきたい」と言われ、「それならば何をかいわんや。了解した」と自らの思考を停止させ、出撃し、轟沈した。日本軍は上から下までその思考を停止し、そうしなければ実行に移せないことをやり、不合理、無理、無謀の当然の帰結として、失敗し、潰走し、壊滅したのである。

…「大津波なんてそうは起こりませんよ」と言われても、私はチリ地震大津波を体験しているから、「また起こる、必ず起こる」と思っていた。「原発事故なんてそう起きるもんじゃありませんよ」とい言われても、福島原発事故後は誰もがそうは思っていないのではないか。「起きた」ことは事実で「将来も起きる」のだ。将来二度と原発事故を起こすまいと思うなら、この要因の一つ一つを洗い出して検討していく以外に方法がないわけである。しかるに相変わらず日本人の思考はそうではないようなのだ。要因の一つ一つを洗い出す前に、経済界の要請だとか、客観情勢の変化だとかを理由に、素人による政治判断があらゆる反対を押し切るわけである。
例えば…原発の横に活断層が走っている可能性があり調査が必要、さらに直下には破砕帯が無数に走っていると指摘されても、それらはまだはっきりしていない不確定要素であり、あまり神経質に考える必要はないとする。たとえ地震が起こっても、たとえ免震重要棟や防潮堤が三年先までなくても、東日本大震災のような大きな揺れが三年以内に発生するとは思えず、たとえ電源が失われても配管が破壊されても、その安全対策は十分とられており、福島のようなことは絶対起こらないと思われる。十六メートルを超える津波はそうあるものとは思えず、放射性物質を取り除くフィルター付きベントが必要なことが発生するとは思えないし、安全は「限定的」であれすでに確保されている…とにかく、「原発は安全」なのである。これ以上の議論は必要ない、議論はおしまいだ。…何をかいわんやである。
脱原発、減原発依存はまことに結構な理想ではあるが「客観情勢は変化」している。原発にかわる代替エネルギーは確保されておらず、経済的にも計画停電の恐れは回避しなければならぬ。国民生活のためにも電力料金の値上げを押さえなければならぬ、二酸化炭素削減の取り組みのためにも、原発は稼働させる必要がある、日本経済のためにも原発は必要なのだ。国民生活や経済に対する責任を誰が負うというのか。政府である。その決断と責任は一国を預かる総理が負う。…何をかいわんや。
何はともあれ政治判断をした。「原発の安全性は確保されている」「安全性は しっかりと確認されている」「原発は安全、安い電力」…。なにをかいわんや。
原発は安いのか? 電源立地市町村への電源三法交付金、特に原発や核施設の立地市町村への高額の補助金は税金であり、電力料金には算入されていない。確立されていない廃炉費用はいったい幾らかかるのか。建設から四十年を経て廃炉を迎える原発が続く。しばらくは政治的判断で寿命の延長を繰り返すのだろう。廃炉費用は利用者負担になるそうだが、当然高い電力料金になるのだろう。また放射性廃棄物の管理施設費や、その処理方法や処理費用もはっきりしていない。何千年と続くその半減期の管理費用も算入されていない。そもそも何千年もの未来に責任を負える者は、誰も存在しないのだ。つまり「思考を停止」したままで、実は誰も考えていないということだ。