過剰演出と感動について

報道やドキュメンタリー番組における過剰な演出を、普通は「やらせ」と言う。…記者は知人男性を介してブローカーなる男性を紹介され(仕込み)、知人男性が用意(仕込み)した部屋を撮せる向かいのビルの屋上にカメラを仕込み、あたかも秘かに隠し撮りしたような映像を装い、その部屋には記者も入って、二人の会話に「もっと詳しく」「もっと具体的に」と要望(指示)を出し、外に出た知人を記者とカメラが捕まえインタビューを試みる(装い)…。演出というより捏造に近い。十分「やらせ」の定義に入るだろう。しかし捏造、やらせは認められず、過剰演出だったと結論づけた。
「クローズアップ現代」の国谷裕子キャスターの涙を二度見た。一度はつい先日のこの件である。悔し涙であったろう。
もう一度は2001年、イランの映画監督モフセン・マフマルバフが、映画「カンダハール」の日本上映と、その著書「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」の日本語版の発売に合わせて来日した時である。
「クローズアップ現代」はマフマルバフ監督をスタジオに招き、国谷裕子がインタビューをした。彼はゆっくりと物静かな口調で、難民たちが砂漠や岩のゴロゴロした荒野の逃避行の現実を語り続けた。鉄の女のように思われた国谷裕子は、静かに涙を流し続けた。彼女は悲惨な現状に心を痛め、マフマルバフのメッセージに深く心を揺すぶられたのだ。感動の涙であったろう。
岩山に掘られた巨大な仏像群の破壊は、まさにタリバンの愚行蛮行に違いないが、多くの命が死に曝され、誰もそれを救うことができない。命を救済すべき宗教が命を奪う。その狂気に近い原理主義が人も物も破壊し続ける。救済のために創始された宗教なのに、偉大で巨大な石仏は、それらの人々を救済することも叶わず、その膨大な死者たちへの世界の無関心と、自らのあまりの無力さに、恥辱のあまり、崩れ落ち、砕け散ったのだ。石仏は自ら崩れ落ちることで、世界の無関心に対し、その耳目をこの地へ集めさせたのだ。…マフマルバフは何という詩人なのであろう。何と優れたジャーナリストなのだろう。

だいぶ以前のNHKスペシャルで、気に入ったものが二つある。ひとつは「家族の肖像」というシリーズで、先ずウォンウィンツァンが手掛けたテーマ曲「運命と絆」、エンディングテーマ曲「勇気と祈り」に、強く心惹かれた。
もうひとつは「映像の世紀」のシリーズである。これも加古隆のテーマ曲「パリは燃えているか」と、映像の底流に響く彼が手掛けた音楽に強く心惹かれた。ほどなく私は彼等のコンサートを企画し、ご出演いただいた。彼等の曲とピアノは、心を揺さぶり素晴らしい。
「映像の世紀」には、やらせが入り込む余地は全くない。しかし「家族の肖像」は入り込む隙(誘惑)が多かったように思えるのだ。
「ガンディーの灯火を揚げて」「虐殺の村を離れて ボスニア」「密告 母と息子の北アイルランド」「平和への遺言~中東ラビン家の人々~」「兄弟、二つの旅路」「グッチ家 失われたブランド」…。
特に「密告」や「兄弟、二つの旅路」は、その出来映えも素晴らしく、ドラマかと思えるばかりにスリリングで、おそらく、仕込み、やらせがあったに違いないと思わせた。別に確証はない。非難しているわけでもない。
少しばかりの仕込みや演出が入ってもいいではないか。セミドキュメンタリーとして見ればいいのである。私は「家族の肖像」の各作品に心を寄せ、感動したのである。単なる事実の羅列より、フィクションのほうが本質を捉え、観る者に確実に伝えることも多い。真実に触れるのは、より本質を抽出し得たほうなのである。劇的な効果を狙った多少の演出やアングルは、そのメッセージを強く印象づけることもでき、本質を伝えやすくするのではないか。無論、ねじ曲げてしまうリスクもある。
NHKで、数多くの優れたドキュメンタリー番組を手掛けてきた山登義明氏に「テレビ制作入門」という著書がある。その中で、このドキュメンタリストは「現実を加工する」という言葉を使い、ドキュメンタリーにおける演出を表現した。面白い。やはり紙一重ではないか。
またテレビマンユニオンの碓井広義氏は、その著「テレビの教科書 ビジネス構造から制作現場まで」の中で、「報道番組も見せ方しだい」等、かなりあけすけに報道の表裏や、ドキュメンタリーの企画、構成、演出等についても語っている。むろんマスコミ志望の学生に向けた本である。元朝日放送の岡本黎明氏の著「テレビの21世紀」もテレビメディア志望の若者たちに向けたテキストだろう。テレビジャーナリズムとは何なのか…である。
これらを参考に、視聴者は端から疑り深く(メディア・リテラシーを持って)報道やドキュメンタリー番組を見ればよいわけである。
本来はマスメディアが権力を監視、チェックすべきなのだが、昨今は権力が放送事業者の許認可権をちらつかせて、テレビ放送メディアを監視、チェックの強化を謀りつつある。権力サイドからの脅し、圧力である。とても危険な兆候と言ってよい。NHKも、やはり権力からの全き独立を保つイギリスのBBCが、国営放送の制度として参考になるのではないか。

つい最近のこと、「感動がほしい」という言葉に、私はたちまち化学反応した。…感動だって…。
すぐ想い出したのは丸山浩路というパフォーマーのことである。彼のテーマは「いのち」であり「愛」であった。まさに「感動」を求めるなら、丸山浩路の世界ではなかろうか。
私は多少の縁あって丸山さんのステージを何度か拝見し、また何度もやっていただいたことがある。私が無音のまま失礼しているうちに、2010年の暮れに亡くなられたとのことである。
思えば、彼のような感動のステージを、ここついぞ見ない。彼と何度も仕事ができたことを心から誇りに思う。まさに彼のような「感動」の演者はいないのだ。それはそうだろう、丸山さん自身の言葉を借りれば、彼は世界で「オンリーワン」だったからである。
丸山さんは心理カウンセラー、心理セラピストから、日本初のプロ手話通訳者に転じ、張りのある大きな声とボディランゲージによる一人語り、一人芝居を演じた。観客はその物語に感動し、ほとんどが涙ぐむ。そして笑う。一人芝居が終わった後のトークショーでは、みな抱腹絶倒、腹の皮がよじれるほど笑い、笑い過ぎて涙が出る。感動して泣き、笑い、また泣き、また笑いと、ずうっと感情を揺さぶられ続けるのだ。丸山さんは人と人の間に「波動」を起こすと言った。また彼はコミュニケーションとメンタルヘルスの研究者でもあった。
臭いほどの過剰演技かも知れない。本人も「臭い丸山、臭丸」と言って笑わせた。過剰な演出などは全くない。演出は極めてシンプルで、照明と小泉源兵衛さんか石田桃子さんのピアノだけである。ときに、横田年昭さんの竹笛、土笛、創作竹楽器などである(芥川龍之介の「蜘蛛の糸」「藪の中」などで、ちなみに横田さんの笛は実に素晴らしかった)。私は一度、「ローラ、叫んでごらん」という物語で、約十秒間禍々しくパトライトを回したことがあるが、せいぜいその程度なのである。
また過剰なほどの演技に見えるが、手話、ボディランゲージでの演技なので、話すときの動きが大きいのは当然である。いつまでもどこか素人っぽさを感じさせたが、何より、洗練さより心を揺さぶる強い力が、丸山さんのパフォーマンスの特長であった。さらに彼が演ずる一人芝居一人語り、トークショーの話題も実話から材をとったものが多い。「ローラ、叫んでごらん」も「鈍行列車」「五井先生と太郎」も実話であった。それはことさらに作った話ではない。
丸山浩路のステージパフォーマンスを、今こそ多くの人に聞いてもらいたい、見てもらいたいと思わせる、実に偉大な演者だったと思うのだ。いないのか、ああいう感じの「感動」の演者はどこかにいないのか。また会いたい、ああいう人に、また出会いたい。