わからない馬

先日の第151回天皇賞(春)をテレビで見た。久しぶりで馬を可愛いと思った。勝ったゴールドシップのことである。
この馬はパドックではいつも温和しく、落ち着いて周回していた。こういう時、解説者の多くが「いいですね。テンションが上がり過ぎず、気合を内に秘めて落ち着いてますね」「毛艶も脚の踏み込みも良いですね」等と言う。
彼はパドックではいつも、そういう様子なのである。落ち着いている?…しかし私には、気が抜けてボーっとしているように見えたものである。芦毛なので、毛艶も発汗の状態もよく分からない。案の定、レースでは人気を裏切り、よく負けた。しかし特に引っ掛かったり、騎手と喧嘩したり、不利を被った様子もなく、意外に伸びないのだ。ゴールドシップはもうレースに飽きていて、真面目に走る気が起こらなかったのではないか、と私には思えた。…もう引退させてやれよ。

先日のNHKの解説・鈴木康弘元調教師は、ゴールドシップを「よく分からない馬」と言った。彼もゴールドシップの解説では、何度も裏切られてきたのである。実況を担当した藤井アナは「今日は気分がよいかどうかですね」と言った。私は笑ってしまった。まるでかつての「気まぐれジョージ」こと天才エリモジョージではないか。
この日、テンションが上がり過ぎないようにと、横山典弘騎手とゴールドシップは一頭だけ早く、白い誘導馬のずっと前を悠然と本馬場に向かった。ゴールドシップが本馬場に出たとき、スタンドの多くのファンは、彼を誘導馬と見間違えたかも知れない。
ところがゴールドシップは、厩務員さんが引き綱を外しても、緑の芝に立ったまま、しばらく動こうともせず、スタンドの大勢の観客を見つめていた。私には「フン」と言ってるように見えた。横山騎手が微笑み、軽く首のあたりをさするように叩いて、返し馬(ウォーミングアップ)を促した。何度か促されると、蟹歩きから、やっと走り出した。
これも、かつて菊花賞でのイシノヒカルが、四肢をターフに突っ張り、梃子でも動こうとしなかった姿にそっくりだった。そのとき増沢騎手は笑いながら、イシノヒカルが気の済むまで、そのまま好きにさせたのであった。これで機嫌がなおったイシノヒカルは、後方からライバルたちを一気にゴボウ抜きにして勝ったのである。

ゴールドシップは輪乗りまで落ち着き払っていた。ファンファーレが鳴りゲート入りが始まると、突然彼はそれを嫌った。何度も後ずさりと尻っ跳ねをした。後ろ向きでゲートに誘導され、方向転換させて入れようとすると、また怒って後ずさりし、尻っ跳ねした。はて、彼はこれまでもゲート入りを嫌がって、こんな風にダダをこねたことがあっただろうか。もう六歳馬という古馬としては珍しい。確かに彼の灰色の尾には「蹴り癖あり、要注意」の小さな赤いリボンが付いているから、蹴り癖はあるのだろう。
やっと係員によって顔に黒い布をかけられ、そのままゲートに入れられた。先にゲート入りして待たされた馬たちにとっては、いい迷惑である。スタート前の激しい入れ込み、消耗…もうこの時点で多くのファンは思っただろう。「今日のゴールドシップはないな」
ゲートが開くとゴールドシップは出遅れ、最後方から行った。彼の前は1番人気のキズナである。流れは縦長の、やや緩やかにも思える平均ペースである。緩い流れは先行馬に利し、後方からの追い込み馬には不利なのである。この時点で多くのファンは思っただろう。「今日のゴールドシップはないな」
と、ゴールドシップは突然引っ掛かったように、ぐんぐんと前に出て、中団やや前まで取りついた。仕掛けとしては早過ぎ、しかもその行きっぷりに使った脚は速すぎるように見えた。ここでそんな速い脚を使ってどうする! この時点で多くのファンは思っただろう。「今日のゴールドシップはないな」
直線、早めにゴールドシップは前を行く馬たちとの差をグイグイと縮め始めた。しかし一杯になったかにも見えた。多くのファンは思っただろう。「やはり…な」…スタート前の激しい消耗、出遅れ、途中での引っ掛かったような早い仕掛け…。もうここまでが限界ではないのか、さらに先頭に踊り出る脚は残っているのか。
しかし、ゴールドシップはそこから最後の力を振り絞るように、グイグイと前に出て先頭に立ち、さらに猛追するフェイムゲームを、クビ差退けた。これは強い! ゴール前、脚色が一番良かったのはステイヤーのフェイムゲームである。しかしそのクビ差は、おそらく底力の差であろう。
山野浩一の定義によれば「底力とは、力を振り絞って限界に達してから、さらに絞り出される力のことである」…とすれば、まさに我々はゴールドシップの「底力」を目の当たりにしたのである。
1番人気のキズナの復活はならなかった…いや、キズナにとって天皇賞・春の3200メートルは、おそらく長すぎたのである。もし復活するとすれば、宝塚記念(2200)の距離だろう。そしてキズナ陣営にお願いだ。もう海外挑戦はしないで欲しい。ちなみに、ゴールドシップと同世代のディープブリランテ陣営は、ダービー制覇に調子づき無謀にもイギリスに遠征したが(大惨敗)、おそらくそれが祟って菊花賞前に故障したのだ。まあデイープブリランテ、ゴールドシップの世代は、ディープブリランテが無事だったとしても、ゴールドシップの方が一枚も二枚も上だと思うのだが…。

ゴールドシップの白い芦毛は、母の父に伝わるメジロアサマ、メジロティターン、メジロマックイーンの3200メートルの天皇賞馬の遺伝であり、典型的なステイヤーの血なのである。この勝利は、かつてのメジロの御大・北野豊吉氏の信念だった「3200メートルの天皇賞を勝つ馬が一番強い」という言葉の実現に違いない(そう言えば、メジロの主戦騎手は、横山典弘騎手の父でメジロムサシの横山富雄騎手であった)。
ゴールドシップのやんちゃぶりは、父ステイゴールド似なのだろう。あるいは配合が同じオルフェーヴル同様、メジロマックイーンに伝わるリマンドの激しすぎる血のせいかも知れない。
レース後のゴールドシップは何事もなかったように、涼しい顔で帰って来た。その様子が実に可愛い。横山典弘騎手は言った。「みんなに迷惑をかけて…ずうっと気を緩めないように気合いを入れ続けた。…いやあ、こんなに疲れたレースはない」…確かに横山騎手は終始気合いを入れ続けたのだろう。それが途中の一気になってしまったに違いない。いったん、なんとか馬をなだめ、抑え、直線に入ってからは再び激しく追い続けた。一番消耗したのは横山典弘騎手だったろう。ゴールドシップは追っつけ続けなければならない「ズブい馬」の典型なのだ。
ファンは面白かった。ゴールドシップが面白かった。発馬前の消耗、出遅れ、途中で一気、直線グイグイ、そして限界、そこからまたグイグイ…。
25戦13勝、内GⅠを6勝。現役最強馬に違いなく、また彼も、どうも「分からない」稀代の癖馬の一頭に違いない。
ゴールドシップや先輩のオルフェーヴルには、叙情的で劇的な、ラフマニノフの曲がよく似合う。