ソング ヒストリー

沢柳政太郎が実験的教育・大正自由主義教育運動として始めた成城小学校(成城学園)に、小原國芳が招聘された。昭和4年(1929年)、小原はそこから枝分かれして玉川学園を創立した。
この学園は開校当初より本格的な合唱を取り入れた音楽教育や、デンマークの新体操術やワンダーフォーゲル等を導入した教育を売りにし、その知名度を上げた。またその成果を問う全国公演旅行を実施することにした。
その第一弾は昭和11年(1936年)4月28日から5月7日の、10日間の東北公演旅行である。
音楽教育や合唱の指導に当たっていたのが東京高等音楽学院(国立音大)出身の岡本敏明で、彼は秋田県鹿角出身の作曲家・成田為三の弟子であった。また体操指導に当たっていた斎藤由理男は秋田県象潟町出身で、デンマークのニルスプック体操学校で学んだ人であった。
小原園長やこの教師らに引率された男女学生・生徒たちで、一行34名であった。この学生・生徒たちで合唱や新体操術の公演する芸能隊、ワンダーフォーゲル隊を編成した。
学園出身者の縁故もあって、5月1日に秋田市の金足西尋常高等小学校を訪問した。まず一行は斎藤先生の号令で、体操の演技を披露し、斎藤がニルスプック式体操の解説をした。
彼らの歓迎会が学校の畳敷の作法室で行われた。今度は岡本先生の指揮で、ハレルヤのコーラスを披露した。秋田側も民謡を披露し、やがてのど自慢大会の様相を呈し会は盛り上がった。
そのうち「先生も歌えや」と舞台に押し出されたのが教師の中道松之助であった。中道は照れ屋ながら、前任地の能代の渟城女子小に勤めていた頃に覚えた詩吟調の歌を披露した。歌というより朗詠である。会場はその詞の面白さに爆笑した。
岡本敏明がメモを取り出し、「先生、もう一回、もう一回、歌ってください」と照れる中道に頼み込み、その詞を書き取った。聞けば中道は佐藤という英語の先生から教わったという。その佐藤先生も同じ学校の真崎という先生が歌っていたのを、爆笑ものの面白い歌詞なので、せがんで教えてもらったということだった。まさに口伝である。
岡本はすぐに曲作りをはじめた。彼は混声三部合唱にしようと思いついた。
一行はその夜、学校に合宿させてもらった。すでに岡本の曲はできていた。その翌日、斎藤の故郷の由利に向かった。移動の奥羽本線の車中で生徒たちに練習させ、羽越本線羽後本荘駅で降り、訪問先の秋田県立本荘高等女学校に入った。ここで新体操術の披露に先立ち、岡本の指揮で混声四部合唱を披露し、会場を沸かせた。


 春になればしがこもとけて
 どじょっこだのふなっこだの
 夜が明けたと思うべな


 夏になればわらしこ泳ぎ
 どじょっこだのふなっこだの
 鬼っこ来たなと思うべな


 秋になれば木の葉こ落ちて
 どじょっこだのふなっこだの
 船っこ来たなと思うべな


 冬になればしがこもはって
 どじょっこだのふなっこだの
 てんじょこはったと思うべな
    ※しがこ(氷)

「どじょっこふなっこ」の歌の初演である。
季節の移ろいとそれを感ずる人々の情感が、小川の小魚たちにユーモラスに託されてまことに微笑ましい。この東北訛りの強い方言の詞に、現代的な西洋音楽の旋律と混声合唱とは、岡本敏明のセンスは実に素晴らしい。
歌唱曲に大胆に取り入れられた方言は、その意味が知れずとも何とも愉快で、後の「かえるの合唱」と共に玉川学園の愛唱歌として歌い継がれていった。戦後、映画「やまびこ学校」の中で「どじょっこふなっこ」が歌われ、大流行した。「うたごえ運動」にも取り上げられ、「青年歌集」の人気曲として、さらに教科書にも掲載された。秋田国体の開会式では小学生のマスゲームにこの曲が使用された。そればかりかソ連国立アカデミー・ロシア合唱団のレパートリーとなって日本国中で巡回演奏されたのである。

この歌のルーツはどこにあるのだろう。教師・中道松之助が、能代の渟城女子小の教師・佐藤武雄から教えてもらったのは大正14年の頃である。佐藤が教師・真崎徳から教えてもらったのも、その一、二年前だろう。
「どじょっこふなっこ」の作詞者は豊口清志とされ、秋田県にはその歌碑も二つある。一つは金足西小学校であり、もう一つは鹿角市十和田毛馬内の仁叟寺の境内の一角に「どじょっこふなっこ」の歌詞の第一章節を刻んだ碑がある。その建立者は豊口清志の長男・清一氏である。しかし豊口作詞説には異説も多く出るようになった。

豊口清志は明治18年、鹿角の米問屋「多助屋」の次男坊として生まれた。明治32年に高等科を卒業し、花輪の受験準備場へ一年通い秋田師範学校の試験に臨んだ。受験中に彼が宿泊していた旅館には、県内外から大勢の受験生が泊まっていた。試験の最終日、受験から解放された若者達の宴会が始まった。
清志は以前から面白いことを言う剽軽な性格で、こういう席にはうってつけであった。歌は下手だが即興的に吟じたのが「どじょっこふなっこ」であったという。これが大受けに受けた。「どじょっふなっこ」は、やがて秋田県内に広まり、金足西尋常高等小学校の中道に伝えられ、さらに岡本に伝えられたというわけである。

清志は秋田師範の受験に失敗した。その後は不老倉小、七滝小山根分校、草木小などを代用教員として転々としていたが、辞めて本家「多助屋」を手伝っていた。後に本家から花輪へ「のれん」を分けてもらい米問屋として独立した。
小坂・尾去沢両鉱山の発展につれ商売の基礎も固まり、一時は酒田方面まで足を伸ぱして庄内米を買付け、東京の市場にも販路を拡げる大店となっていった。しかし、欧州大戦後に米相場が大変動し、彼の店は破綻した。
その後、金物雑貨商に転じたが、戦時統制で行き詰った。戦後は古書などを扱っていたらしい。
長男清一氏は戦後中国大陸から引揚げて来たという。昭和23、4年頃、よく父の清志のもとに、同郷の石田一学先生が遊びにやって来ては、若い頃の思い出話に耽り、その中で「どじょっこふなっこ」の話をしていたという。あの歌の詞は父の即興から流行りだしたのか…。
清一氏は父の死後上京し、生活と仕事に追われた。彼は建設関係のパテント等を扱う会社の社長となった。父が作ったという「どじょっこふなっこ」の歌のことなど考えることもなかった。
秋田県が全国高校スキー大会の会場となった昭和41年頃、何度も往来する機会が増えた。彼は知己縁者に会った際、むかし父と石田先生の「どじょっこふなっこ」話の記憶を確認してみた。多くの人がそう聞いていると言った。
その中で、青森県の陸奥横浜に嫁いでいる従妹が、小学生時分に「どじょっこふなっこ」を学校で習ったとき、先生が「作詞はこの町の多助屋のオンチャマだ」と言ったので誇らしかったと証言した。
清一氏は詩碑の建立こそ、父への何よりの供養と思い立った。碑の文字は、父清志の三年後輩にあたる教育家で県文化功労賞を受章した高橋克三先生(老松庵)にお願いした。鹿角市十和田毛馬内の仁叟寺の詩碑である。
しかし詩碑が建てられ地元紙などに紹介されると、他の東北隣県各地からも、似たような「田植え歌」がある、「わらべうた」「民謡」があるという声が寄せられるようになった。
この歌はもともと岩手や秋田、青森などでわらべうた、民謡として広く唄われていたが、その歌詞を最初に採録したのが鹿角市の豊口清志ではないかというものである。
「どじょっこ」のルーツと思われる津軽の唄はこうだ。

春くれば田堰(ぜき)小堰(ぜき)サ水コ出る
どじょっこ鰍(かじか)コせ
おどろいで海サ出ハだと思うベァね

弘前市の作曲家・木村繁(しげし)によると、仙台の平家琵琶演奏家の館山甲午が、彼の幼時、父がよく歌っていた唄として「民謡大観」の中に木造田植唄として歌詞と譜を載せているという。館山甲牛は津軽弁の弘前市の出身であり、その幼少年期は明治20年から30年頃にあたる。
また新民謡としての田植え唄もある。

春来れば田ぜき小ぜきサ水コ出る
ドジョッコカジカッコ喜んで喜んで
海コさへえったと思うべね
コーリャコリャ

夏来れば田ぜき小ぜきサぬるくなる
ドジョッコカジカッコ喜んで喜んで
お湯コさへえったと思うべね
コーリャコリャ

秋来れば野山お山は赤くなる
ドジョッコカジカッコ驚いて驚いて
山コは火事だと思うべね
コーリャコリャ

冬来れば田ぜき小ぜきサすがはこる
ドジョッコカジカッコ喜んで喜んで
天井コ張ったと思うべね
コーリャコリャ

これは吉幾三も「津軽平野」の挿入歌にしている。

春くれば田ぜき小ぜきサ水コ出る
どじょっこ鰍(かじか)コせ
喜んで喜んで春がきたなどおもうベナ

弘前大学の長坂幸子助教授の郷里は秋田県増田町であることから、「どじょっこふなっこ」のルーツ論争に興味を抱き、学問的見地から調べたという。秋田県、青森県の古老二十人ほどに当たり、調査の結果を「民謡の発生と伝播」という論文にした。
彼女の調査では、館山甲午の記憶する唄は、おそらく木造地方の田植唄とし、また津軽民謡の名人・成田雲竹師が生前歌っていた「津軽方言入り上河原(じょんがら)節」を発掘した。そこには四季を詠んだ地口があった。

春くればいーでぁ
田堰(せき)小堰コのすまこぁとけべぁね
泥鱒(どじょ)コだの鮒(ふな)ッコだの
湯(よ)コサはいたべぁねと思うべぁね

長坂は、その歌の発祥・原流は、特定の創始者の創作意思や伝承者の個性が問題にされぬ「民謡」だとした。明治三十年代初め、青森西南部と秋田県北部にかけて、田植唄や詩吟調で歌われていたという事実は確認できるが、他の民謡と同様、長い間の交流で旋律、歌詞ともに幾種類かに変わって伝わったものであろうと結論した。
また先述の木村繁によると、津軽飴の行商人が唄を歌いながら売り歩き、その唄を広めたのではないかともいう。この旅の津軽飴売りの唄を覚えていた豊口清志が、その剽軽な詩才で、即興的に歌詞を完成させたというところかも知れない。