ある夏の思い出

私がT百貨店に「創作人形展」の企画を持ち込み、その展覧会を実施したとき、S君と親しくなった。彼は広告代理店に所属していたが、席はその百貨店の宣伝部にあったのである。何度か語らううちに、現代アートをやっているということだった。アートだけでは飯が食えないため、そうしているらしい。
もう三十年近く前になる。S君が人を伴って訪ねてきた。ギャラリーQの上田雄三氏であった。
「犀川国際アートフェスティバル」というイベントをやろうとしているが、手伝ってくれないかというのである。上田氏は現代アートのアーティストであり、画廊経営者であり、アートキュレーター、コーディネーターであった。プロデューサーは上田氏、S君はその補佐、私がイベントのディレクションを担当することになった。
犀川とは信濃川水系の一つで、信州新町(現長野市に編入)を流れる一級河川である。すでに日本、フランス、韓国などからの参加アーティストが固まりつつあって、その中には巨匠もいた。顔ぶれは現代アートのアーティスト、ダンサー、パフォーマーと多彩であった。なんとも実に壮大な企画なのである。
八月の真夏、お盆まで一週間余りをかけて開催する予定だという。展示会場は信州新町美術館、信州新町の中学校の体育館、犀川の河川敷、神社の境内などである。
上田氏やS君の売り込みで、ながの東急百貨店別館シェルシェ特設展示会場とホールも会場に付け加えられた。
また事前のPRのために、当時お洒落なイベントスポットとされていた芝浦インクスティックでプレイベントを実施し、初日前日には、ながの東急百貨店前でもパフォーマンスイベントを実施するというように徐々に膨らんでいった。
犀川国際アートフェスティバルの最終日は、信州新町で行われる恒例の花火大会に合わせて、河原でコンサートを行いたいという。
私たちは何度も参加アーティストを集まっていただき、作品イメージや展示イメージ、希望を聴取し、また何度も信州新町に打ち合わせに出かけた。
会期が近づくと、すでに何人かのアーティストが、信州新町の寺に泊まり込んで、大きな作品の制作に取りかかっていた。

芝浦インクスティックのプレイベントは面白かった。当時、女性たちに人気の高かった勅使河原三郎のダンスやパフォーマーたちのステージ、深草アキの秦琴のコンサートなどを展開した。先ずプレイベントは大成功だった。
信州新町美術館に入る手前の畑を借りて、まず彫刻家の関根伸夫氏の作品が設置されることになった。クレーン車で吊り上げられたのは、赤く塗られた巨大な鉄骨で組まれた作品である。支え合う「人」を形づくったものであった。
その後も信州新町美術館に作品が搬入され、あるいは美術館内で制作が始まった。信州新町美術館の副館長の滝沢氏はハラハラされたことであろう。何せわがままなアーティストたちである。
この美術館のロケーションが素晴らしい。目の前が瘻鶴湖(ろうかくこ)という、犀川が流れ込む、静かな青碧色のダム湖(水内ダム)であった。向こう岸は深い森である。真夏でも湖を渡ってくる風が心地よい。美術館と並ぶ古い洋館は有島生馬の別荘で、そのまま有島生馬記念館になっている。瘻鶴湖の名付け親は有島生馬であるという。
犀川の河川敷、中学校の体育館、シェルシェにも作品が搬入され、ホールにステージが組まれた。
アーティストたちもスタッフも信州新町のお寺さんに泊めていただいた。雑魚寝の合宿である。

初日、私はほとんどシェルシェのホールにいた。アメリカでいくつもの賞を受賞した黒沢美香のダンスパフォーマンスが行われた。シェルシェで行われたパフォーマンスの中で、出色だったのは武井よしみちであった。
ステージセンターにマイクとマイクスタンドが立っている。実はこれは電動工具のグラインダー(砥石)なのである。彼のいでたちは、黒縁のロイド眼鏡、白いワイシャツにきっちりと衿元までボタンをはめ、地味なネクタイを締め、ワイシャツの両袖には昔の役場の事務員のように黒い袖カバーをしている。
彼はマイク、じゃなかったグラインダーの前に直立不動で立つ。まるで東海林太郎のようである。グラインダーが回り始める。武井よしみちは鉛筆大の金属棒をそのクラインダーに当てる。それはキーンと工場と紛うような音と火花を上げる。彼は朗々とテノール歌手のようにアリアを歌い出す。歌詞は不明で何語でもない。おそらくアリアでもないが、見事なアリアのようなのである。
彼はますます声を張り上げる。素晴らしい声だ。火花は武井の上半身を隠すほど、盛大に天井近くまで上がり、武井の顔に、頭上にふりそそぐ。
次に武井は身体の数カ所にセンサーを取り付けて現れる。彼の腰のベルトには携帯ラジオが付けられている。そのラジオのチューニングはいい加減らしく、ザーっという音が聞こえる。武井が舞踏を始める。腕を上げ動かすことで、ラジオの音が変わる。プププ、ブーピー。足を回す。ピッピッピッザー、身体を不自然に回転させ、くねらせる。その度にラジオは不思議な音を奏で変化する…。それは無意味な音楽のような雑音だ。壊れたラジオの雑音のような面白い音楽だ。
素晴らしい、面白い。踊りの最後の動きで、ラジオは本来の放送を流し始める。その時はニュース番組だった。アナウンサーは岸信介元首相の死を伝えた。まさにその時のライブなのである。観客は、そして私たちスタッフ全員が、岸の死を知ったのだ。
こんな面白いパフォーマンスがあったのか!音響さんも照明さんも、笑い声をこらえ、身を捩るように笑っている。これぞ「伝説の武井よしみち」のパフォーマンスなのだ。

深草アキの秦琴コンサートは、夜間に神社の境内で行われた。薪能のように薪がゆらゆらと炎を上げ、爆ぜた。聴衆はゴザを敷いて酒を飲みながら聴いていた。実に心地よい音楽である。演奏は数時間に及んだ。聴衆を見るとみな気持ちよさそうに寝ていた。秦琴はα波を出すといわれる。これほど心地よい演奏、曲、音楽があるだろうか。

犀川国際アートフェスティバルの掉尾は、信州新町の毎夏の恒例の花火大会と合わせる演出とした。
私は社に出入りしていた、あるロックバンドの追っかけ女性から、竹林賢二を紹介された。彼は横須賀の臨済宗の寺僧で、ミュージシャンでもあった。
私は迷わず竹林賢二に声をかけた。彼はスティックタッチボード(今はチャッブマン・スティックとか単にスティックと呼ばれているらしい)という、当時アメリカでエメット・チャップマンが作った新楽器の、ほとんど唯一の奏者だった。
竹林はアメリカ旅行中に、チャップマンの元に行き、彼の家に二ヶ月泊まり込んで奏法を学んだという。
不思議な弦楽器である。エレキで、長い平らで幅広のスティックを肩から胸に抱くように抱え、フレットを打つのである。弦打楽器だ。シンセサイザーのような音色で、ベースとコードとメロディラインを一度に奏でることができるのだ。実に幻想的で、深く玄妙な音色なのである。
私の最初の演出案はこうであった。湖上に竹林賢二を乗せた和船が浮いている。上流の橋に仕掛けられたナイヤガラ花火の煙が湖上に霧のように流れてくる。岸辺から何本かのサーチ灯が湖上の煙の霧を照らす。そして和船の上で止まる。船上に立った竹林賢二の奏でる深遠な曲が流れ始める。…しかしこれは建設省の方やダム管理の東電の方たちから強く反対された。「あんたたちは水流の強さを知らないのだ。船を湖上の一点に停止させることは不可能だ」
私はすぐ演出案を撤回した。地元の皆さんの協力を得て、ドラム缶をつないで浮かせ、その上に桟橋を掛け、その突端にやや広めのデッキを設けていただいたのである。ドラム缶筏の桟橋である。桟橋は湖上に突き出て浮いた状態である。
犀川と瘻鶴湖(ろうかくこ)は食道と胃袋に形が似ている。湖へと広がりはじめる場所に、そういう浮橋のステージを作っていただいた。さらに花火師の親方と打ち合わせをさせていただいた。また信州新町の犀川はお盆の灯籠流しで有名なところであったので、建設省の方に上流の灯篭を流す地点から、湖に流れ着くまでの時間を、水流の速度から計算していただいた。上流から灯篭を流すタイミングも町の実行委員の方たちと打ち合わせをした。

花火や灯篭流しを目当てに、近隣からやって来た何万人もの人たちが岸辺を埋めた。まず花火が始まる。尺玉が上がり、水中スターマインが歓声を呼ぶ。…やや上流の橋に仕掛けられたナイヤガラ花火で、いよいよコンサートが近づく。ナイヤガラ花火の煙が湖上に流れ、幻想的な霧をつくった。暗い湖面に不思議な音色が流れはじめる。
照明が、湖上に突き出た桟橋の突端の竹林賢二を照らし出した。彼のいでたちは無国籍である。頭からすっぽりと被った、やや長めの布はアラブの人のようにも見えなくはない。あるいは琵琶法師か。湖上に吹き渡る微風に幅広の袖やそれらが翻る。おそらく、観衆が初めて聴く幻想的な音色であったことだろう。観客は誰も動かず、それを見つめ、聴き入っていた。
三十分近くが経ち、上流から流された幾百、千の橙色の灯篭が、瘻鶴湖に入り、
竹林の立つ桟橋の周囲を漂い、湖面の一面に広がってゆっくりと流れていく。そして暗転、最後に尺玉が上がった。拍手や口笛がなり、それはなかなか止まなかった。…こうして祭りは終わった。

これが1987年の夏であった。その後、プロデューサーの上田氏は大変だったであろう。
翌年、私は雑誌の「アクロス」に「犀川国際アートフェスティバル」の記事を見つけた。
「1987年に行われたイベントの中では、犀川国際アートフェスティバルが最も突出していた。」