イヌよ、イヌよ

雪原に座ったシロクマが、その膝の上に子犬を乗せ、愛おしむように胸に抱きしめている不思議な写真を見た。丹葉暁弥の傑作写真である。実は犬は成犬なのだ。写真下に「カナディアンエスキモードッグの繁殖区域に毎年通っているシロクマは、犬と友達になった」という説明文が付されていた。
私は犬種に詳しくない。カナディアンエスキモードッグという種が確立しているのかどうかも知らない。単にイヌイットたちが狩猟や犬橇に使役する「エスキモー犬」なのだろうと思っていた。
ふと、「北」と名付けられた北海道犬(アイヌ犬)の話を思い出した。「北」は日本軍の軍用犬だったが、戦時下の運命に翻弄され、やがて極北の氷原を走る犬橇のリーダー犬となり、種犬となる。「北」はシベリアン・ハスキー種やマラミュート種、サエモド種、アラスカン・ハスキー種などと掛け合わされ、雑種をつくり続ける。やがて「北」の系統の血に本物の狼の血が混じる。その半狼は犬神(アヌビス)と名付けられ、タイガの森を彷徨い…。しかし「北」と名付けられたこの犬が主人公なのではない。

「イヌよ、イヌよ、お前たちはどこにいる?」

これは古川日出男の「ベルカ、吠えないのか?」という不思議に魅力的な小説である。
これまでに見ないスピードで疾駆するハードボイルドであり、サスペンスであり、冒険小説であり、哀切な純文学である。この小説のセンテンスはごく短い。そのセンテンスの短さは、ヘミングウェイのハードボイルド的短編や、サローヤンの「我が名はアラム」のようなキュートな短さとは全く異なる。またカミュの「異邦人」のような、乾ききった言葉の短さとも異なる。その言葉や文節の短さは、犬の思考、犬の言葉の短さなのである。犬の優れて鋭い感覚と本能と反応の速さが、スピード感にあふれた簡潔さで描かれているのだ。そして「イヌよ、イヌよ、お前たちはどこにいる?」というフレーズが、各章の冒頭にリフレインされ続ける。

日本軍によってキスカ島に置き去りにされた四頭の軍用犬がいた。もぬけの殻になった島にアメリカ軍が上陸する。四頭のうち一頭は自分の任務を思い出す。敵を地雷原に誘い込み、彼らの肉体を粉々に吹き飛ばすことである。こうして彼は何人かの敵兵を爆殺し自らも粉々になった。三頭はアメリカ兵に餌をもらい、鹵獲された。そのうちの一頭は元々アメリカ軍の軍用犬で、日本軍によって鹵獲されていた雌のジャーマン・シェパードだった。二頭のうちの一頭は雄のシェパード、そしてもう一頭が雄の北海道犬「北」であった。
この三頭が、アメリカ、アラスカ、カナダ北極に、シベリアのタイガの森に、朝鮮半島や中国やベトナムに、ミネソタやハワイやメキシコ、サモア、アフガニスタンに、彼らの系統樹を拡げ、絡み合い、殺し合い、死んでいく、という実に数奇な物語なのである。
三頭の軍用犬の末裔たちは、ウィスコンシンのハイウェイで交錯する。これが感動的なのだ。またベトコンの掘った地下道で交錯し、南太平洋に浮かぶサモアの島で交錯する。無論交錯する犬たちは、自分たちの始祖の物語を知らない。アリューシャンの霧のキスカの物語を知らない。彼らは高い能力を持つが故に、特殊任務を担ったり、敵(人間)の喉を咬み裂くための犬として、徹底的に訓練を受け、戦闘の場に駆り出されるのだ。
日本軍によってキスカ島にうち捨てられた三頭の末裔は、やがて旧ソビエト連邦の特殊部隊(軍用犬部隊)を創設した局長(将軍)だった老人の手元に集まり、前代未聞のロシアマフィアとチェチェンマフィアの抗争と虐殺、時の政府との内なる戦争への任務に就く。彼らはコマンドを聞き、地を這い、飛びかかって敵の顎下を切り裂く…。
彼らに最期のコマンドを発するのは、日本の「ヤクザの嬢」で、まだ十二歳くらいの幼児のように太った女の子なのである。この「ぼけ、死ね」を多用する「ヤクザの嬢」が、品がなくて、なかなかいいのだ。

古川日出男の「ベルカ、吠えないのか?」は、実に面白い小説である。一読をお薦めしたい。
ところで、「犬は良い目をしていたので、世界が灰色に見えた」と書いたのは、詩人の西脇順三郎であった。実にいい詩であった。

古川日出男「ベルカ、吠えないのか?」(文春文庫)