聖歌と南吉

前回「童謡のことなど」の中で、「漱石のそれ以前、『童謡』という言葉は全く使用されておらず…」と書いた。童謡という単語は「日本書紀」に初出するが、それ以降、明治三十八年一月号の「ホトトギス」に、漱石が「童謡」という詩を発表するまで使用例がないという意味である。これは誤りであった。
つい先日、平凡社刊の東洋文庫「日本児童遊戯集」(大田才次郎編、瀬田貞二解説)を引っ張り出し、読み直し始めて、その誤りに気付いた。この本は明治三十四年、二月から三月にかけて博文館から発行された「日本全国児童遊戯法」全三巻の覆刻版である。
その「例言」冒頭に、「近年児童の研究頻りに起り、童謡を調査するもの、遊戯を調査するもの、玩具を調査するもの等、種々の方面よりしてこれが研究に従事しつつあれども、本書は必ずしもこれらの目的を立てて編纂せるものに非ず。… 明治三十四年二月 編者識」とある。
編者・大田才次郎は夏目漱石の四年ばかり前に「童謡」という言葉を使用していたのである。おそらく、出版物でないにせよ、他にも使用されていたと考えるのが妥当だろう。
大田は東陽堂の「風俗画報」に執筆したりしている。特に相撲と講談に詳しかったらしい。今で言うフリーランスの編集者で執筆者でもあったのだろう。しかし、彼が編集者として細かな作業をしていたというイメージは湧きにくい。
そもそも編集と編纂の二語に定義の違いはあるのか。広辞苑をはじめ、いくつかの辞書で二語の定義を調べたが、ほとんど差異はない。…世に編集権というものがあるらしい。また編集著作権というのもあるらしい。

一年ほど前「狐の話」という一文を書いた。その中で「焚き火とごん狐のお話し」に触れた。そして「『ごん狐』と巽聖歌の物語は別の機会にしよう」と書きながら、そのままに過ぎてしまった。
昨年は童話作家・新美南吉の生誕百年で、生地の愛知県半田市ではさまざまなイベントを開催していた。特に秋の矢勝川堤を赤く染める見事な彼岸花は、「ごん狐」に由来して整備されたものだという。
巽聖歌は少年時代、時事新報社で下働きをし、校正の手伝いをしていたことがある。一時失意のうちに岩手県の日詰に帰郷していたが、「赤い鳥」に投稿した童謡詩「水口」で北原白秋に激賞され、再び上京。白秋門下として童謡詩を書き、与田準一や多くの詩人や児童文学者等と交わり、準一らと「赤い鳥童謡会」をつくった。そして白秋の弟・北原鐵雄が経営する出版社アルスで編集の仕事をしていた。
新美南吉が投稿した童謡詩が「赤い鳥」に掲載されたことが縁となり、南吉は何人かの童謡詩人や童話作家らと文通し、知り合いになった。特に与田準一や巽聖歌と親しくなった。
準一や聖歌らは「乳樹(チチノキ)」を創刊した。南吉はここに童話を投稿し、その同人となった。準一も聖歌も「赤い鳥」の先輩であり、白秋門下の先輩だった。南吉は準一や聖歌に自分の原稿を見せ、意見を求め、それによって書き直したりもしていたのだろう。
聖歌は「ここで句点を入れれば、ほら読みやすくなるだろう? ほら、こことここの文節を入れ替えると分かりやすくなる。こうすれば文章が簡潔になる…」等と付したに違いない。南吉は喜び、それに従ったに違いない。南吉は実に素直な人だったのだ。こうして南吉と聖歌の兄弟のような付き合いが始まった。
南吉は「ごん狐」を書き始めた。おそらく何度も聖歌や準一等に意見を求めたことだろう。添削を求めたこともあったであろう。

私は「ごん狐」を三種ほど読んだことがある。一度でも流布した種類はもっと多いのかもしれない。「ごん狐」は「赤い鳥」に投稿され、選者の鈴木三重吉から高く評価された。三重吉は原稿に手を入れ、掲載した。三重吉は「赤い鳥」の主宰者である。発行人には編集権がある。そして彼自身が作家であり、児童文学者である。
ちなみに三重吉は、度々投稿してきた宮沢賢治の作品が全く理解できず、ついに「赤い鳥」に掲載することはなかった。
「ごん狐」の「赤い鳥」への掲載を、一番喜んだのは聖歌であった。南吉は半田小の代用教員を辞め上京した。一番その世話を焼いたのは聖歌であった。南吉は東京外国語学校の英文科に進んだ。
聖歌が中野区の上高田に家を借り、彼が結婚するまで南吉も共に暮らした。その家の周辺は、田畑と屋敷林で囲まれた旧い農家が点在するだけの長閑な田園地帯であった。屋敷林の落ち葉は掻き集められ、畑の肥料として鋤込まれたり、焼かれて、その灰も畑に撒かれた。焚き火の薄い、青い煙は、日常の田園の情景なのである。後に聖歌は、その風景を童謡「たきび」に詩った。

かきねの、かきねの まがりかど
たきびだ、たきびだ おちばたき。

南吉は学校で多くの友人ができた。「赤い鳥」の仲間たちとの交流も増えた。
ある日彼は喀血した。学校を卒業し、神田の貿易会社に勤めたが、本格的な療養のため半田に戻ることにした。
「いいか、無理するなよ。でも書き続けろよ。そのうち良い薬もできる」
と聖歌は南吉を駅まで見送った。その病気を一番心配し、その帰郷を一番寂しがったのは聖歌だったろう。
帰郷した南吉は、教職に就いたり退職したりを繰り返した。その間、聖歌は彼に新聞社や出版社を紹介したりした。さらに童話集「おぢいさんのランプ」刊行の労をとった。出版社や装丁、挿絵の話もどんどん進めた。この時の挿絵は棟方志功である。戦争拡大のおり、紙も容易に手に入らなくなった頃である。聖歌は走り回った。こうして晩秋に「おぢいさんのランプ」が出た。
その後、南吉の病状が悪化し、年を越した春まだき、彼は息を引き取った。聖歌は慟哭した。葬儀が済むと聖歌は南吉の残した草稿を預かり、その整理に入った。南吉の全ての作品を出版してあげたい、彼をもっと知ってもらいたい、多くの子どもたちに読んでもらいたい。…聖歌は南吉の原稿に手を入れた。こうすればもっと良くなる、こう表現した方が南吉の意図が伝わる、ここに句点を打てば分かりやすくなる、ここを削り、ここで読点を打てばより簡潔になる。こうすれば子どもたちの心により伝わるだろう。…聖歌は、自由律俳句のような「水口」で知られる詩人であり、物書きであり、そして編集者だったのだ。
彼は奔走した。紙の入手のために頭を下げ続け、印刷所を駆け回った。こうして昭和十八年の秋、二冊の本が刊行され、南吉の仏前に置かれた。
戦後も巽聖歌は南吉の作品を広めるために尽力した。やがて新美南吉は東北の宮沢賢治に比され、童話作家として評価されていった。
ある日、聖歌は愕然とした。彼が勝手に新美南吉の原稿に手を入れたという非難の的になったのである。その非難は聖歌の胸を撃ち抜くように痛撃した。「自分が良かれと思ってやったことは、いけないことだったのだろうか」
ちなみに、ほとんどの編集者は、「良かれ」と思って手を入れるのである。

宮沢賢治の童話も、新美南吉の童話も、その解釈はたいへん難しい。
南吉の「ごん狐」は、ごんが兵十に隠れて彼への償いの行為を続ける話である。兵十の家に栗や茸などをそっと置いてくるのだ。兵十のために良かれと思ってやったことが、かえって兵十に迷惑をかけることもある。魚売りの魚籠から鰯を盗み、兵十の家に置いて来たため、兵十は盗人呼ばわりされて殴られる。しかしごんは、兵十に理解されないその隠れた行為をやめない。ある日見つかって、ごんは兵十の火縄銃に撃たれる。兵十の火縄銃から、青い煙が、まだ筒口から細く出て…
良かれと思ってやったことが、理解されないこともある。誤解されることもある。ごんは、そのため痛撃されたのである。聖歌も、良かれと思ってやったことで、痛撃されたのである。新美南吉の「ごん狐」は、彼が兄のように慕っていた巽聖歌への一撃に、どこか重なるように思えてならないのだ。

新美南吉「ごんぎつね」(絵・黒井健 偕成社)