文豪と小鳥

また百鬼園こと内田百閒先生である。この人はいつも不機嫌そうな、怒ったような顔をしていたが、別にそれで損をした様子はない。むしろ、そんな先生を慕う弟子達が、彼の家に多く集まって、先生の大好きな酒を共にした。
先生に似て、弟子達も口が悪い。彼らは先生の還暦を賑やかに祝ったが、その後も先生が健やかに我が儘だったため、「まだ死なないのか?」と笑い合った。ある日それを耳にした先生は「まあだだよ」と怒ったように言った。それを機に先生の誕生会を「摩阿陀会(まあだかい)」として、また先生の家に集まり、皆で酒を飲んだ。
先生はその不機嫌な顔とは裏腹に、大好きなものがたくさんあって、むしろ心楽しい幸せな日々を送っていたのである。大好きなものの一は酒である。煙草である。そして「阿房列車」に結実したように、有名な鉄道好き、旅好きである。「なんにも用事がないけれど」汽車に乗ることが目的の旅が好きだったのだ。観光には全く興味が無く、車窓の後ろに飛び去る風景と、長箱(客車)で揺られながらする人間観察がよほど面白かったに違いない。先生は、どこか年端の行かない少年のままなのだ。
さらに先生は小鳥好きであった。東京大空襲の夜、先生は飲み残しの一升瓶を右手に、メジロの鳥籠を左腕に抱えて、火焔と火の粉の中を避難した。戦後その鳥籠だらけの家に、ノラという猫も飼った。ノラを溺愛し、その失踪後に「ノラや」を書き、やっと悲しみが癒えるとクルツという猫を溺愛した。クルツも病死してしまったが、彼は「クルやお前か」を書いた。
先生の書斎は、堆く積み上げられた書籍と、何段にも積み上げられた鳥籠で占められていた。子猫のノラを飼い始めた頃、先生は書斎の敷居を指さしながら、ノラに厳命したに違いない。「猫の方は、ここから先へは入っていけないことになっております」…ノラは俯いて敷居を見つめ、次に顔を上げて右、左と書斎の中の書籍と鳥籠を見回したはずである。そしてノラは聞き分けが良く、決して書斎に入らなかった。「ノラは可愛い顔をしていて、とてもお利口なのである。」
先生はクルツにも厳命したに違いない。クルツも先生の言う通りにした。ノラもクルツも先生の顔が恐ろしかったのかも知れない。

先生の飼育していた小鳥は本来野鳥である。メジロやウグイス、ヒワ、ノジコ等であろう。
彼がまだ小鳥の飼育をしていなかった学生時代、夏目漱石先生の家の集まりに顔を出すようになった。その頃漱石先生は文鳥を飼っていた。百閒は先生に向かって、小鳥の飼育について何事か論じたらしい。
想像するに、「先生の飼っていらっしゃる文鳥や、十姉妹、錦華鳥などは完全に野性を失った小鳥たちです。彼等は籠の外では生きていけません。何かのはずみで小鳥が鳥籠から逃げ出したとしても、野生でも生きていけるメジロやウグイスなどを飼われたらいかがですか。」…漱石は生意気な奴だと思ったに違いない。ちなみに百閒先生は、いつも不機嫌でぶっきらぼうな漱石について書いている。「嫌な親爺だ」

夏目漱石の随筆「文鳥」は名高い。十月に早稲田に越したばかりの伽藍とした書斎で頬杖をついていると、鈴木三重吉がやって来て「先生、鳥をお飼いなさい」と唐突に言う。「飼ってもいいが、どういう鳥だ?」「文鳥です」
三重吉の小説「三月七日」に文鳥が出てくる。それによると文鳥は千代千代と鳴くそうである。奇麗な鳥なのだろう。
「…じゃあ、買ってくれたまえ」と言っても、三重吉は「ぜひお飼いなさい」と強硬に繰り返した。「だから飼うよ…」むにゃむにゃと漱石は言った。三重吉は黙ってしまった。
やがて「籠をお買いなさい」と三重吉が言った。「よろしい」と漱石が言うと、三重吉は堂々たる鳥籠の講釈を、長々と始めた。漱石はいい加減に聞き流した。そして、優れた職人の手になる好い籠は二十円くらいしますと三重吉が言った。漱石は驚いて「たかが鳥籠にそんな高価なものでなくてもよかろう」と、むにゃむにゃ言った。三重吉はそれを無視して「駒込に籠作りの名人がいると聞きました」と言った。漱石は「そんな名人の籠でなくてもいい」と、むにゃむにゃ言った。三重吉は「だいぶ年寄りと聞いたから、もう死んでしまったかも知れません」と、にやにやした。
まあ漱石は万事を三重吉に任せることにした。三重吉は「お金を下さい」と手を出した。漱石が五円札を渡すと、三重吉はそれを自分の紙入れにしまった。…だがその後、文鳥も籠も容易にやって来ない。やがて小春(陰暦十月)になった。硝子戸越しの五尺の縁側は日当たりが良く、こんな暖かで気持ちの良い日は、文鳥もさぞ心地よく千代千代と鳴くのだろうが、文鳥も籠もやって来ない。三重吉はしばしばやって来る。しかし文鳥の話も籠の講釈もいっさいしない。よく女の話などをしては帰って行く。漱石もあえて文鳥や籠の話はしない。やがて忘れた(諦めた?)。

霜が降りた。漱石は戸を二重に締めきって、火鉢に炭ばかり継いでいる。寒いから火鉢を抱え込むように顔を温めていた宵の口、三重吉が舎弟分の小宮豊隆を従えて威勢良く入ってきた。二人は二つの籠と箱を抱えていた。この初冬の晩、五円札がやっと文鳥と籠と箱になったのだ。
台が漆塗りのなかなか立派な籠である。三重吉が「これで三円です」と言った。「良いものは二十円もするそうです」と彼は以前にも言ったことを繰り返した。「三円は安いなあ、豊隆」「うん安い」と豊隆も同意した。言わされている感がしなくもない。「三円が安いのか高いのか判らないが、そりゃあ二十円と比べれば安かろう」と漱石は思った。三重吉がしきりに籠の講釈を始めた。そして「まあ鳥をご覧なさい。奇麗でしょう」と言った。なるほど奇麗だ。「寒いだろうね」「だから夜はこの箱に入れるんです」「もう一つの籠はどうするのだね」「粗末なほうの籠は時々行水をさせる時に移すんです」
漱石は面倒だなと思ったが、三重吉は構わず次々と飼育の仕方を説明した。行水、糞の掃除、水替え、給餌、餌壺の殻の吹き方など、彼は文鳥に対しては親切を極め、漱石に対しては強硬であった。「ちゃんとやって下さいよ、先生」
漱石は少しばかり面倒だな、自分にできるかなという覚束なさを感じながら、先ずやってみようと決心した。そこで「よろしい」と請け合った。もしできなければ、家のものがどうかするだろう、という程度の決意である。
翌朝、目が覚めると硝子戸に日が射している。たちまち文鳥のことを思い出したが、寒いし布団から出るのが億劫だった。今にやろう、もう少し、と思ううちに八時を過ぎた。やっと起き出し、文鳥の箱の蓋をとってやると、小鳥は目をぱちつかせている。明るいところでの初めてのご対面である。文鳥の目は真っ黒で、瞼の周囲は美しい淡紅(とき)色の絹糸を縫い付けたような筋が入っている。小鳥は白い首を傾けながら漱石の顔を見て、ちちと鳴いた。挨拶しているかのようである。漱石はしばらく穏やかに文鳥を眺めていた。
漱石は三重吉に教えられたように、文鳥の水替えや、餌壺の殻をふうふうと吹いたり、新たな粟を足したりした。…いかにも不器用な様子で世話をした。
漱石は日課の小説を書いていた。紙の上を走るペンの音を聴く。ときどきペンが止まる。硝子戸の外の風の音を聴く。ふと縁側で文鳥が千代千代と鳴いた。以前はペンが止まると吹き荒れた庭を眺める癖があったが、漱石はそっと鳥籠に近づき、その傍にしゃがみ込んで文鳥を見つめた。文鳥は漱石の顔を見ながら、白い胸を突き出し、高く美しい声で千代と鳴いた。漱石は文鳥を眺め続けた。

やがて漱石は執筆やら会合やら忙しく日々を過ごすうち、つい水替えも餌遣りも忘れてしまうのである。ある日漱石は縁側が静かなことに気がついた。…文鳥は死んでいた。水は空であった。餌壺は殻ばかりであった。漱石は小鳥の死骸を取り出し、しばらく死んだ文鳥を眺めていた。それを座布団に移すと、烈しく手を打ち叩き、十六歳になる小女を呼んだ。漱石は敷居際に手をつかえた小女の前に小鳥の死骸を抛り出し、「餌をやらないから死んでしまった」と怒鳴った。
漱石は三重吉に手紙を書いた。「家(うち)の人(もの)が餌を遣らないものだから、文鳥はとうとう死んでしまった」…小女も漱石の理不尽さを思ったに違いない。世間では偉い先生だと言うけれど…「嫌な親爺だ」

夏目漱石「文鳥」
(「文鳥・夢十夜・永日小品」角川文庫)