虫愛づる姫君

NHKのニュース「おはよう日本」によれば、いま若い女性たちにナチュラルな太眉がブームなのだという。街中の女性たちに、そのことについてマイクを向ければ、みなナチュラルな太眉を支持していた。カメラが選別しているのかも知れないが、確かに細い眉はほとんど見当たらないようなのだ。(無論、イモトという女お笑い芸人の、おかず海苔のような太い描き眉は反ナチュラルである。)
ふと「堤中納言物語」の「虫愛づる姫君」を思い出した。

噂の姫君をからかいに来た馬寮(めりょう)の若者、右馬佐(うまのすけ)に「烏毛虫にまぎるるまゆの毛の末にあたるばかりの人はなきかな」…と笑われたが、この娘、ナチュラルな太眉だったのだ。いや、右馬佐は姫君の魅力を褒めたのだ。彼女は年齢にして十五歳前後であろうか。ちなみに右馬佐は、朝廷の馬の飼育や調教を担当する馬寮(めりょう)の右馬寮(うまめりょう)次官である。
姫君は人が嫌う毛虫や芋虫などを愛する、極めて風変わりで、理知的、科学者的な思考の娘なのである。彼女は理系女子(リケジョ)だったのだ。その性格もなかなかナチュラルである。
彼女は「蝶愛づる姫君の」隣の屋敷に住む、按察使(あぜち)の大納言の姫君で、両親にたいそう可愛がられていた。
この姫君は「人々の花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人は、まことあり、本地たづねたるこそ、心ばへおかしけれ」(皆が花よ蝶よと愛づるだけなのは、何ともつまらないわ。真実を、本質を探究する心のほうが大切だと思うわ)と言い放ち、いろいろな種類の恐ろしげな毛虫や芋虫を集めては、「これが成らむさまを見む」(成長して蝶になるのを見るのよ)と籠箱に入れて飼い、「烏毛虫の心深きさましたるこそ心にくけれ」(ご覧なさいな、毛虫たちの何か考え深そうな顔が可愛いわ)と、邪魔な長い髪を耳の間に挟み込み(後ろに束ねていたのだろうか)、毛虫を手の裏に乗せて、その顔や動きをまじまじと観察するのである。彼女の世話をする屋敷の女房(侍女)たちは恐ろしがり気味悪がるのだが、いっこう意に介さない。虫を怖がらない身分の低い男の子たちを呼び集め、籠箱の虫の名を問い、名前の分からない虫には、自ら新たに命名して面白がっていた。

彼女は他の姫君や女性たちと異なり、「人はすべて、つくろふところあるはわろし」(つくろうのは良くないわ、自然が一番よ)と化粧もせず、眉も抜かず、眉引もせず、裳着(女性の元服)が済んでも歯を黒く染めることもしない。
お歯黒など「さらにうるさし(面倒だし)、きたなし」と、女房たちの勧めに対してにべもなく、白い健康的な歯を見せて笑いとばすのである。つい侍女たちが虫を怖がって悲鳴を上げて逃げまどうと、「こんなことで騒ぐなんて、お行儀が悪いわ」と怒り、黒く太い眉をあげて睨みつける。
両親は「本当に変わり者で困ったものだ」と思いつつも、「賢い娘だから、何か思うところがあるのだろう。注意しても、その反論は深くしっかりとしていているから困ったものだ」と嘆いていた。姫君の周囲の者たちも言う。

「さはありとも、音聞きあやしや。人は、みめをかしきことをこそ好むなれ。『むくつけげなる烏毛虫を興ずなる』と世の人の聞かむもいとあやし」
(そうは言ってもねぇ、世間体が悪いわよ。世の中の人は見た目の美しさや印象を重視するものよ。『気味の悪い毛虫が趣味』なんて噂をされたら困るでしょう。)
「苦しからず。よろづのことどもをたづねて、末を見ればこそ、事ゆゑあれ。いとをさなきことなり。烏毛虫の、蝶とはなるなり」そのさまのなり出づるを、取り出でて見せたまへり。
(「全く何とも思わないわ。万物の事象を探究して、それがどうなるのか観察していけば、その理(ことわり)も解き明かされるのよ。あまり幼稚なことを言わないでよ。この毛虫だってみんなが愛でる蝶になるのよ」と、その過程のものを取り出して見せる。)
「きぬとて、人々の着るも、蚕のまだ羽につかぬにし出し、蝶になりぬれば、いともそでにて、あだになりぬるをや」とのたまふに、言い返すべうもあらず、あさまし。
(「あなた方が着ている絹だって、もともとこんな虫なのよ。蚕がまだ羽化しない幼虫のうちに糸を取り出すの。蝶になってしまってからでは、糸にも袖にもならず、無駄になってしまうのよ」と述べ立てるので、誰も言い返すこともできず、ただ呆れてしまう。)

若い侍女たちは「たしかに賢い姫君だけど、あのご趣味は何とかならないものかしら。私、おかしくなりそう」「蝶を愛でる姫君に仕えている方たちはどんなによいことでしょう」などと言い合っている。

物怖じしない童たちが虫を捕まえてくると、姫君は彼等にいろいろご褒美をあげる。だから童たちはますます気味の悪い毛虫や芋虫などを獲ってくる。そのうち彼女は毛虫や芋虫の詩歌がないことに気づく。姫君は童たちに蟷螂や蝸牛など他の虫たちも集めさせ、彼等に「かたつぶりのお、つのの、あらそふや、なぞ」と、大声で叫き散らすように歌わせて、それを笑いながら聴き、やがて自分も諳んじて、いっしょに楽しげに大声で歌うのだ。実に天真爛漫なのである。
また、童たちを普通の名前で呼ぶのはつまらぬと、「けらを、ひきまろ、いなかたち、いなごまろ、あまびこ」等、虫のあだ名を付けて呼ぶようになる。「けらを」はオケラの「ケラ夫」、「ひきまろ」は「ひき麻呂」で蛙のことであろうか、「いなかたち」はどんな虫なのか今日では不明、「いなごまろ」は「蝗麻呂」、「あまびこ」は雨後によく出るヤスデのことらしく、男の子なので「雨彦」と呼んだ。大らかでナチュラルな姫君なのである。
この姫君、身の丈もほどよく、髪も豊かで、髪のすそを切りそろえてはいないけれど、容姿がととのい、なかなか美しげであった。他の姫君たちのような話し方や化粧をしないのは、素材が良いだけに実にもったいないようである。とても清げで、どこか気高く、確かに世の他の女性たちとは異なる魅力を持っていたようなのである。
「烏毛虫にまぎるるまゆの毛の末にあたるばかりの人はなきかな」…貴女の眉の端っこの毛にも相当する人はいませんよ。貴女は実に魅力的です。

「堤中納言物語」は平安後期から十三世紀にかけて、異なる書き手によって書きつながれ、編纂された短編集とされる。作者たちも編纂者たちも不明である。
「虫愛づる姫君」は、蜂を愛した太政大臣の藤原宗輔と、その娘がモデルと伝えられているらしい。
宮崎駿は「風の谷のナウシカ」のヒロイン「ナウシカ」のモデルを、この「虫愛づる姫君」であるとしている。しかしナウシカは太眉ではない。
「虫愛づる姫君」は、レイチェル・カーソンのようなエコロジカル・リテラシーと科学的探求精神の持ち主だったのであろう。あるいは娘版アンリ・ファーブルであろうか。
だいぶ以前ゲートシティ大崎の夏休みの展覧会イベントで「ファーブル展」をやったことがある。奥本大三郎氏の監修である。毎日新聞文化部の記者が取材に来て、奥本氏にインタビューをした。記者は最後まで氏を昆虫学者だと思い込んだままであった(フランス文学者ですよ、「ファーブル昆虫記」の翻訳者ですよ、それでも文化部か)。傍らで氏の「虫のゐどころ」が気になった。私は奥本氏のエッセイ「虫のゐどころ」が大好きだ。あれは楽しい。
ちなみに「ファーブル展」の会期中、昆虫たちの健康面の面倒を見てくれたのは女性の昆虫研究者であった。聞けば無論、子どもの頃から虫が大好きなのだという。「虫愛づる姫君」が、そのまま昆虫学者になったわけである。

「堤中納言物語」