楽しい寓話

世界中の誰もが一度は、子どもの頃に聞かされたり読んだりした物語に、イソップの話がある。「アリとキリギリス」「ウサギとカメ」「ずるいキツネ」「犬と肉」「ガチョウと金の卵」「馬をうらやんだロバ」「太陽神と北風の神」…。
イソップ寓話とは、紀元前600〜500年頃に実在した古代ギリシャのアイソーポスの寓話である。彼は奴隷だったという。…まるで家畜のような扱いではないか、しかし知能ではあいつらの方が動物並みではないか。…その鬱屈、その不条理な境涯を生き抜くため、考えをめぐらし様々な知恵を身に付け、自らを慰め、戒め、その諷意に満ちた考えを寓話や格言に託して、周囲の同じ境涯の人々や頑是無い子どもたちにも語ったものなのだろう。アイソーポスは相当な「考える人」であり、したたかな知恵者だったに違いない。当然のように動物に仮託した話が多い。
そのアイソーポスの寓話に、ヨーロッパ各地の民話や俚諺、格言が童話風に付け加えられ、翻案されて「イソップ寓話」「イソップ物語」「イソップ童話」として後世に、世界中に伝えられていくのである。

17世紀のフランスの詩人ジャン・ド・ラ・フォンテーヌは数々の寓話詩を書いた。当然、動物に仮託された話や自然現象に仮託した例え話が多い。「金の卵を産む雌鶏」や「北風と太陽」はよく知られている。つまり、ラ・フォンテーヌの話の元はイソップ寓話である。ラ・フォンテーヌの寓話詩はそのイソップの翻案、あるいは「再話」である。日本で言えば「本歌取り」であろう。彼の寓話詩は詩人の本領が発揮されているのに違いないが、翻訳ではなかなかそれが伝わらないのではなかろうか。
余談だが、むかし競走馬でラフオンテースというお調子者の快速牝馬がいた。フランスの詩人・寓話作家と同じ名にするつもりだったらしい。馬名を登録した際「ヌ」を「ス」と読まれて登録されてしまった。また「ォ」を「オ」に誤認されている。よほど字が雑だったのだろう。
またアザルトオンワードという恐ろしく強い馬がいた(故障で大成しなかった)。アザルトでは意味不明である。実は馬主(オンワードの樫山純三氏)が電話で登録を頼んだ人に「アダルト」と伝えたのに、「アザルト」と聞こえてしまったらしい。…(ヌイマセン、えらく脱線してしまって。ヌイマセン?…なんじゃそりゃ?)

18〜19世紀にかけて活躍したロシアの劇作家イヴァン・アンドレーヴィッチ・クルイロフも、ラ・フォンテーヌの寓話を翻案(本歌取り)し、ロシア文学伝統の古い国民詩や民話、俚諺、慣用句を取り入れ、簡潔でユーモアと諷意、諷刺に満ちた寓話に仕立て直し、それを数多く残した。帝政ロシアの圧政下での痛烈な諷刺である。
クルイロフの寓話も動物もののオンパレードである。「鴉と狐」「鴉と鶏」「蛙と牛」「真鶸(まひわ)と針鼠」「狼と子羊」「猿たち」「四十雀(しじゅうから)」「驢馬」「尾長猿とめがね」「二羽の鳩」「鷲と雌鶏たち」「ライオンと豹」「猟犬小屋の狼」「狐とマーモット」「鷲と蜜蜂」「猟をした兎」「子鴉」「驢馬と鶯」「象と狆」「猿」…。動物に仮託した諷刺は韜晦しやすく、また誰も傷つけぬような配慮なのかも知れない。彼はロシアで最も偉大な国民的作家の一人とされている。ロシア人は民間伝承の唄や話、俚諺が大好きなのである。「完訳クルイロフ寓話集」は岩波文庫(内海周平訳)で誰でも読める。

ドイツの作家エーリッヒ・ケストナーは、ナチの発禁・焚書の弾圧や言葉狩りに対抗した。彼はナチから執筆や出版を禁じられた。しかし「話す」のは禁じられていないと考えた。誰でも知っている子どもたち向けのお話を「再話」したのである。決してめげない人なのだ。トーマス・マンら他の作家たちが亡命するなか、彼はドイツに踏みとどまった。
ケストナーの試みた「再話」もまた「本歌取り」だろう。日本で言えば、太宰治の「お伽草紙」がそれに近い。いや太宰の作品は、少し意地悪で残酷だ。ケストナーは落語に近い。古典落語が数多くの演者に語られ、それぞれに微妙に表現や解釈や味付けが異なる。ケストナーは新解釈や新しい物語を加えることはしなかった。古典や、おなじみのお話を尊重したのだ。彼は長い物語を簡略にし、子どもにも分かりやすく簡潔な言葉に言い換え、微妙に視点を変え、テーマをずらし、より物語の風景を滑稽化した。
やがて彼はこの「再話」をスイスのドイツ語圏で、たくさんの挿画を入れた絵本として出版したのである。スイスでは彼の本は禁じられていないからである。ほら、ケストナーがウインクしている。それらの作品は戦後映画化されたらしい。
「オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」「長靴をはいた猫」「ほらふき男爵」「シルダの町の人びと」「ドン・キホーテ」「ガリバー旅行記」を収録した「ケストナーの『ほらふき男爵』」は、ちくま文庫(池内紀・泉千穂子訳)で誰でも読める。この文庫版の帯の言葉が微笑ましい。「おなじみのおはなしの裏側で、ケストナーがウインクしてる。」
彼の再話にも、たくさんの動物たちが登場する。

はじめてロシアに行ったのは、冬のさなかのことだった。…見わたすかぎり白皚々、道もなければ木も見えない。道しるべなど、もとよりなし。ただ一面の雪ばかり。
ある夜、半ば凍りつき、疲れはてて馬からおりた。雪の中に木の梢がのぞいている。これに馬をつないで、わが身はひとり、ピストルを抱き、マントを敷いて、仮り寝の宿とした。
目が覚めると、キラキラ太陽が輝いている。辺りを見回し、あらためて目をこすった。おどろいたね、村にいる。しかも教会の墓地ときた! 誰だって墓石のあいだで目覚めたくないではないか。それに馬がいない。昨夜、すぐ近くに手綱を結びつけたはずだ。
突然、頭の上で馬のいななきがした。はるか上、教会の風見鶏につながれて、わが馬がもがいている! いったい、どのようにして教会の塔までのぼったのか? やがて、ことのしだいが呑みこめた。教会もろとも村全体が深い雪にうもれていたのだ。木の梢と思ったものは、実は教会の風見鶏だった。夜のあいだに寒さがゆるんで、雪が溶けた。…とどのつまりは墓石のあいだで目が覚めた。さて、どうしたものか。幸いにも射撃にかけては自信がある。ピストルをとり出し風見鶏に結びつけた手綱を狙ってズドンとやった。馬が地上に落ちてくる。四つ脚でスックと立って、さもうれしげにいなないた。
そこでヒラリと馬にとびのり、さらに旅をつづけたしだい。

「ほらふき男爵」の「教会の塔にのぼった馬のこと」だが、続く「馬を丸呑みした狼のこと」「じゅずつなぎの鴨」も面白い。「ほらふき男爵」も面白いが「ドン・キホーテ」はもっと面白い。これはやっぱり落語だ。…ドン・キホーテの大真面目な騎士道は、旅(放浪)の間にあちこちで大迷惑な事件を引き起こし、ついに捕らえられ、カゴに入れられ帰郷する。

…家に着く。ドン・キホーテは書斎に閉じ込められた。家政婦と姪っこが世話を焼く。主人をベッドに押し込んだ。
サンチョ・バンサも家に戻って女房と子どもにキスをした。
「何を持って帰っておくれだね」
キスのあと女房がきいた。
「ぺこぺこのこの腹よ」
とサンチョは答えてテーブルにつく。
「ほかには何も?」
女房はがっかりした。
「この次だ。いずれは島を一つもらって、おまえは総督夫人だな」
「島なんてもらったらどうすりゃいいんだね。この家じゃ小さすぎるというのかい。総督夫人っていったい何さ」
サンチョがいった。
「総督の女房よ」
「総督ってのは何だい」
「総督夫人の旦那さ」
女房はひざを叩いた。
「ああ、なるほど」

ケストナーの「再話」のドイツ語原文は知らない。訳者・池内紀と泉千穂子の高い日本語の能力か、簡潔で素晴らしくリズムがあって心地よい。「ガリバー旅行記」も「長靴をはいた猫」もテンポがよくて心地よい。