鵜ン蓄

長良川の鵜飼は有名である。その鵜匠たちの一部は国家公務員の身分で、宮内庁式部職に属する。古津地区(岐阜市長良)の六人、小瀬鵜飼と呼ばれる立花地区(関市小瀬)の三人がそれに当たり、世襲制である。彼等の鵜飼用具一式は国の重要有形民俗文化財に指定されている。宮内庁御料場での鵜飼漁による鮎は、皇居に献上され、また伊勢神宮や明治神宮に奉納されるという。
律令時代、鵜飼人は宮廷直属の官吏(鵜飼部)として漁をしていた。それは長良川ではなかったろう。かつて鵜飼漁は日本の川のいたるところで行われていたらしい。当然鵜に因む言葉が多く生まれた。鵜呑み、鵜の目鷹の目、鵜の真似をする烏、鵜の丸呑み、鵜の鳥の尻抜け…。
各河川の鵜飼は、後にそれぞれの領主たちに鮎を献上することで、身分上の特別な保護を受け、彼等は武士に似た矜持を抱いてきた。長良川の鵜飼漁は尾張徳川家の保護を受けていた。明治維新後はその保護もなくなり、消滅の危機を迎えたが、明治二十三年に彼等は宮内庁の式部職に組み入れられ、「日本の伝統漁法」として守られて今日に至る。
万葉集に大伴家持の鵜飼漁の歌がある。
毎年(としのは)に鮎し走らば辟田(さきた)川
鵜八つ潜(かづ)けて川瀬尋ねむ
婦負(めひ)川の早き瀬ごとに篝さし
八十伴(やそとも)の男(を)は鵜川立ちけり
司馬遼太郎は「街道をゆく8 熊野・古座街道、種子島みちほか」の「豊後・日田街道」で、日田の鵜飼について一章を割いている。以下に少し引用する。

「あれは、鵜飼でしょう」
「鵜飼いでございます。でも、美濃の長良川のよりこちらのほうが古いそうでございます」
と、仲居さんはいった。
鵜飼というのはまことに奇妙な漁法だが、「日本書紀」にも「古事記」にも出ているから、よほど古い漁法なのであろう。
だれが発明したものでもなさそうで、中国のとくに江南の地には、杜甫の詩に詠まれた昔から(むろん、それ以前から)ごく一般的に存在している。だから、古代の東南アジアにあっては、この技術を中心にした血族集団がいろいろな河川に住みつき、ときに分岐してあらたな河川をさがして移動していたものにちがいない。

つまり鵜飼漁そのものは「日本の伝統漁法」といったものではないらしい。しかし中国の鵜飼漁は昼間に行われていた。日本でも古代は昼間に行っていたかもしれないが、大伴家持が歌った頃はすでに「篝さし」夜に行われている。下って新古今集に寂蓮法師の次の歌もある。
鵜飼舟高瀬さし越す程なれや 結ぼほれ行くかがり火の影
新古今集には前大僧正慈円の鵜飼漁の歌も収められている。
鵜飼舟あはれとぞ見るもののふの やそ宇治川の夕闇のそら
鵜舟の舳先に篝火をたいて鮎を集めるのが、日本で発達した伝統漁法なのだろう。舳先で十羽前後の鵜を操るのが「鵜匠」で、艫(とも)で舟を操るのが「供乗り」、舟の真ん中で鵜匠と供乗りの助手を務める人を「中乗り」という。この三人で一組なのである。供乗りは本来「艫乗り」が正しかろう。
司馬が見た日田・玖珠川(三隅川)の鵜飼漁には中乗りはおらず、舟の真ん中の鵜匠と供乗りの二人で一組である。
ちなみに「中乗り」は長野県「木曽節」で、「木曽のナー 中乗りさん 木曽の御岳さんはナンジャラホイ」と唄にも登場する。山から伐り出した材木を筏組みにし、筏の先頭に乗る者を「舳(へ)乗り」、真ん中が「中乗り」で後ろが「艫乗り」である。鵜飼漁の「供乗り」はやはり「艫乗り」だろう。

鵜飼に戻る。舟首の鵜匠は篝火に引き寄せられた鮎を狙って、鵜を潜水させ、鵜が飲み込んだ鮎を鵜匠の吐き籠に出させる。喉の紐は調整でき、一定の大きさに満たない鮎は、鵜の喉を通って胃袋に入る仕組みなのだ。吐き出した鮎は、鉤型の鋭い嘴でつけられた疵があり、瞬殺なのでその新鮮さが保たれるという。漁に使われる鵜は、川鵜より一回り大きい海鵜で、気性もきついらしい。
鵜は漂鳥である。川鵜も海鵜もコロニーを形成する。コロニーの下は糞で真っ白に覆われ、草木も枯れてしまう。すると彼等は移動するのである。以前浜離宮公園の一角に川鵜のコロニーが形成され、問題になったことがある。
鵜の木、鵜山、鵜沼などの地名は、かつてそこに川鵜のコロニーがあったと推察される。鵜の浜は海鵜のコロニーがあったのだろう。宮崎県日向灘に面した絶壁の空洞に、古代より続く鵜戸神宮がある。これは空(うつ)、洞(うろ)からきた名称だというが、おそらく海鵜のコロニーがあったのだろう。
以前テレビで、海鵜を捕獲する方の番組を見たことがある。場所は茨城県十王町の切り立つ崖の伊師浜海岸で、気の荒い野生の海鵜を生け捕りにする専門家を撮ったものである。海鵜の生け捕り稼業だけで生計が成り立つとは思えず、おそらく漁業や農業を兼業されておられるのだろう。日本各地の鵜飼漁の鵜はほとんどここで捕獲されたものである。この伊師浜海岸の崖は数年前に大きく崩落し、鵜獲りの場所は危機に面している。また捕獲人はわずか彼一人だけであるという。後継者がいなければ、これも絶える危機にある。
映像の海鵜の生け捕りは面白かった。崩れやすい断崖絶壁のわずかばかりの場所に、篠竹の簾を立て、その前に飼い慣らした囮の鵜をつなぎ、彼は簾の後ろに身を潜めてじっと機会を待ち続けるのだ。囮鵜が崖の上で羽繕いしながら寛ぐ姿に誘われて、野生の海鵜が飛んでくる。その鵜が安心しきって羽繕いなどをしていると、簾の下から鉤棒でさっとその脚を引っかけ、むんずと脚を掴むや簾の後ろに一気に引きずり込み、竹籠の中に押し込むのである。捕らえた野生の鵜は、その後各地の鵜匠の元に送られ、三年訓練して漁に使うという。

以下やや長いが再び司馬の「鵜匠」からの引用である。

どの鵜も、ふなばたにしっかりと爪を立て、バタバタとつばさを半ばひろげつつ、つばさの水を切ったり、鳴いたりしている。
一羽だけが、偉そうに舟のへさきに立ち、長いのどをそらせ、ゆったりとつばさをひろげたりすぼめたりする運動をしていた。
私はいつか読んだ鵜の生態の一つが、本当かどうかをきいてみようと思った。鵜というものには年功序列があるということなのである。
「鵜には、先輩後輩の序列がありますか」
ときくと、その四十年配の鵜匠は、例の鵜の目のような目の表情をすこしも変えず、
「あります。厳然たるものです」
と、ふなばたから返事をしてくれた。
私の読んだその記事は、長良川の鵜飼でのことである。鵜たちは鵜匠の家のプールで飼われている。かれらは習性として一列でならびたがるがそのプールサイドにならんでいるとき、あくまでも鵜匠に飼われた年功順にならんでいるという。ときにとんまな新入りがいて、その順序を乱して適当な場所に割り込むと両隣りの鵜が怒り、くわっくわっと騒がしく鳴き、つばさでもって弾き出し、結局は最下方へやってしまう。
私はその話をして、そういうことが玖珠川でもありますか、ときくと、
「どこの鵜でもそうです。年功序列をみだすと大さわぎになります」
と鵜匠はいい、自分の舟のへさきに傲然と立って前方を見ている鵜を指して、
「あの鵜は最古参で、十三年です」 …
「最新参は?」
ときくと、鵜匠はずっととものほうでつばさをばたつかせている鵜を指さし、「あのワカドリです。一年です」
と言い、やがて舟を離れさせ、上流のほうへ去って行った。…
鵜が年功順にならぶというのは本能であるとしても、物知らずの新入りがその序列をみだした場合に、どの鵜も大さわぎしてその物知らずを蹴出してしまい、最下方にならばせるというのは、鵜に礼教の意識があるとしか思えない。要するに文化意識というのは何も人間にかぎったことではなさそうなのである。
「では鵜のまねをしたのでしょうか」
須田さんが大まじめにいったが、ひょっとするとそうかもしれない。…

面白い。人間が鵜の真似をして礼教を身に付けたか…。

司馬遼太郎「街道をゆく8 熊野・古座街道、種子島みちほか」
(朝日文庫)