白い犬、見える?

文体は平明である。しかし、よくわからない。椅子にかけたまま、目をつぶって考え事をしている。亡くなった妻のことなど、物思いに耽っている。ふと声をかけられる。眠っていたようだ。…テリー・ケイの「白い犬とワルツを」という小説は、どこまでが現実で、どこからが転た寝の夢の中か、よくわからない。まどろむような老人の想念と夢と現実は、その境が不分明なのだ。
サム・ピークは八十一歳になる。歩くのに歩行器を使っている。「きょう妻が死んだ。結婚生活五十七年、幸せだった」と日記に書いた。子どもたちが台所のテーブルで、声をひそめて話し合っている。俺には、お前たちの胸のうちまで、手に取るようにわかっている。俺がもう年で、今後のことが心配だから、みんなで相談しようというわけだ。俺に聞こえないようにと思って声をひそめていても、ちゃんとわかるのだ。なにかいい方法を考えよう。とにかく、ひとりじゃやっていけない。無理だよ。脚だって悪いんだ。ひとり暮らし馴れてないしな。そうよ。いつもだれかそばについていたんだもの。自分じゃ牛みたいに頑健なつもりだ、ちょっとかわいそうだな……「パパ」呼ばれて目を開けると、いちばん上の息子が見下ろしている。「もう遅いよ、パパ。寝よう」
サムは頑固で、気丈だった。俺は心配ない、俺はひとりでも大丈夫だ。心配してくれるのは嬉しいよ、でも心配はいらない。俺はひとりでも大丈夫だよ。

薬剤師が処方した薬を飲む。娘たちは鳴りをひそめている。ベッドに肘をつき、頭を上げて寝室の窓の外を眺める。エニシダの茂みのあたりで、白いものがさっと地面をかすめた。頭を枕にあて目を閉じると、眠りに落ちる。
ある日の夜明け前、窓の外を見ると犬がいた。真っ白な犬だ。グレイハウンドのように鼻が長く、尻の筋肉は張りつめている。ずいぶん腹を空かせているらしい。痩せてあばら骨が浮いている。怯えてもいる。どこかで虐められ、逃げ出してきたのか、それとも車で連れて来られ、川のほとりにでも捨てられたのか。この犬は病気かも知れない。追っ払うか、安楽死させてやったほうが良いかも知れない。…あれが生きていれば、犬に餌を与えてから「あっちへお行き」と言うだろう。サムは食べ残しのオートミールの皿に、ビスケットの残りを砕き、ベーコンの脂をスプーンで混ぜ合わせる。その皿を裏口の階段に出しておいた。お腹が一杯になったら、どこかへ行くだろう。犬を飼いたい子どものいる家だってあるだろう。
皿は空になっていた。庭のポストまで郵便物を取りに出ると、白い犬がじっとサムを見ていた。「そうか、餌をもらったので、ここにいる気になったか。しまったな。餌なんかやるんじゃなかった」

この犬はサムにしか見えなかった。息子や娘たちには見えないのだ。「お義父さんは幻覚でも見ているんだよ」「このあたりに犬がうろついていたら、近所の犬が吠えるはずだよ」「ママと話ができなくなって、幻覚を見るようになったのよ」…毎日毎日、白い犬は裏口の階段に出されたサムの残り物の餌を食べていく。兄弟姉妹が電話で喧嘩腰になる。「隅から隅まで探したわ。いつもそこにいるってパパが言うから。でもいなかったわ」「それじゃ、あなたのいうとおり、幻覚なのかしら」と、最後は誰もが寂しそうな口調になった。
数日間、サムは意地悪をして裏口に餌を出さなかった。白い犬は姿を見せなくなった。いなくなったか、死んでしまったか。たぶんいなくなったのだ。しかし再び犬は姿を見せた。サムは裏口に皿を出し、台所からうかがっていると、皿の餌をむさぼるように食べ始めた。「やっぱり戻ってきたな。どこにいた」彼は微笑む。「いったいお前はなにものなんだ。雌だね、苦労したんだろうね」

サムは子どもたちに言った。「あんな変な犬、見たことないな。白子みたいだ。ママとはじめて飼った犬が、ちょうどあんなふうだった。あれ以来だ、あんな真っ白の犬は」
その真っ白な犬は、サム以外の人間の前には姿を見せない。吠えもせず、物音も立てない。やはりサムにしか見えないのだ。怯え、人間を警戒するようなそぶりを見せていた白い犬は、やがてサムの傍に寄ってくるようになった。さらに台所に足を踏み入れ、部屋にも入るようになった。そしていつもサムの傍らに腹這いになり、そのベッドの下にも潜り込む。サムはその静かな真っ白な犬に、話しかける。
サムが歩行器で移動しようとすると、白い犬は歩行器に手を掛けて立つ。移動すると、まるで一緒にダンスを踊っているようだ。この白い犬は何の象徴なのだろう。五十七年連れ添った妻のコウラの化身なのか。やはり老いたサムの孤独がつくり出した幻覚なのか。息子や娘たちや、知人と話すときのサムは少しも呆けてはいない。しっかりしたものだ。この真っ白な犬の話以外は。

ふたりの娘たちが、口裏を合わせて白い犬が見えるふりをしはじめた。父が哀れになったのだろう。しかし、やがて子どもたちにも、真っ白な犬がはっきりと見える日がやってきた。
彼等は父との会話の中に、真っ白な犬、いつもすぐ姿を隠してしまう犬のことを、話題にするようになった。お手伝いでピーク家に来るニーリーは、「あの白い犬は幽霊よ」と恐ろしがった。
サムと不思議な白い犬の絆が生まれてから、数年経った。サムの肉体は癌に冒されていた。癌の症状について解説するテレビ番組を見て、彼は自分の死が近づいたことを悟った。彼は白い犬を呼ぶ。犬は椅子の傍まで駆けてくると、彼の手に頭をこすりつける。「おい、痛いことになりそうだぞ」静かな声で犬に話しかける。
息子は医者から、サムの病名と余命を聞いた。息子は二ヶ月間その秘密を守った。「パパ、教えてもらいたいよ。すべてを受け入れるのに時間が要るんだよ」「わかった。潮時だろう、延ばすわけにはいかん」「僕から話していい」「話してくれ」…サムは気丈だった。娘たちは怯えた目をした。つとめて明るく振る舞うが、ぎこちない。息子たちは真剣な面持ちをしたり、言いづらいけれど遺言とか、最後の頼みとかないかと訊ねる。いよいよというときが来るまでがたがたするな、とサムは命じた。パパひとりにしておきたくない、と娘や息子が言う。「俺はひとりじゃない。俺の犬がいる」

彼の最後の日まで、四人の娘たちが一週間交替で看護することになった。娘のアルマが来たとき、白い犬は彼と一緒に部屋の隅にいた。「パパの犬にこんなに近づいたの、はじめてだわ。触らせてくれるかしら」「無理だろう」「いつも逃げるのに今日はどうしたのかしら、逃げないわ」「くたびれたんだろう、俺みたいに」…アルマが部屋を出て行くと、犬は寄ってきて彼の膝に頭を埋めた。「もうふたりっきりにはなれないな。これからはいつも人がいる。我慢だ、我慢」
犬が外に出たがるそぶりをした。彼は歩行器にすがって立ち上がり、台所のドアを開けた。白い犬は歩行器の輪にすがって立ち、彼の手に頭を埋めた。そして家から走り出て行った。それが白い犬の見納めとなった。
死の前日、サムは言った。「おい、あれはお前たちのママだったんだ」「誰のこと」「白い犬さ。あれは俺を見守るために、戻って来てくれたんだ…ママは思ったんだ。もう自分はいなくてもいいってな、お前たちが戻って来てくれたんだからな」

「白い犬とワルツを」はアメリカではドラマ化もされ、ヒットした。日本では発行から六年、文庫化から三年、さほど話題にものぼらなかった。習志野市の書店員・木下和郞氏は、自らの感動を手書きのPOPにし、この文庫本の傍に掲出した。
「妻を喪った老人の前にあらわれた白い犬。この犬の姿は老人にしか見えない。それが他のひとたちにも見えるようになる場面は鳥肌ものです。何度読んでも肌が粟立ちます。感動の一冊。プレゼントにもぴったりです。」
その書店で「白い犬とワルツを」は売れ始めた。この書店での突出した売れ行きが話題となり、やがて全国で二十万部を超えた。さらに仲代達矢の主演で映画化され、百二十万部のベストセラーとなったのである。

テリー・ケイ「白い犬とワルツを」
(兼武進訳 新潮文庫)