犬捜し探偵事務所

貞享四年、五代将軍綱吉は殺生の禁止令を出した。俗に生類憐れみの令と呼ばれる。綱吉が戌年生まれだったことから犬を愛し、四谷や中野などに野犬捨て犬の収容施設を作り、犬公方と陰口をたたかれた。特に中野村の柵で囲われた施設は広大で、土地の人はお囲い御用屋敷と呼んだ。
昭和十三年、その跡地に陸軍中野学校ができた。諜報・防諜養成機関である。その施設の秘密性から高い屏で囲われ、辺りは囲町と呼ばれた。
戦後、陸軍中野学校跡地には警察大学校、警視庁警察学校ができ、現在は警察病院や警察関連施設になっている。各時代の跡地利用の企画者たちが痛烈な諧謔精神の持ち主だったとは思わないが、その偶然の符合は面白い。
池波正太郎の「鬼平犯科帳」には、火付盗賊改方の手足となって、盗賊たちの探索に当たる元盗賊の密偵たちが登場する。彦十、おまさ、小房の粂八、大滝の五郎蔵、伊三次…彼等は盗賊たちから「狗(いぬ)」と蔑まれる。
諜報機関や警察を貶める気持ちは全くない。彼等が時に犬と呼ばれるのは、探るため、捜査のため「嗅ぎ回る」、その職業的な勘ばたらきから「嗅覚が鋭い」、というイメージから出たものだろう。電車内や町中で、黒いラブラドールの画像を使用した探偵社のポスターを見かけることがある。あれも調査に「鼻が利く」、というイメージを前面に出したものだろう。

米澤穂信の「犬はどこだ」という探偵ミステリーが面白い。主人公は紺屋長一郎、二十五歳。高校時代剣道部に所属し部長をつとめていた。成績はそれなりに優秀で志望した東京の大学に入った。社交性も上昇志向もあり、早めの就職活動にも励み、高い求人倍率をくぐり抜け、目標としていた銀行に入行した。しかし、ほどなくアレルギーが原因のアトピー性皮膚炎に罹ってしまう。疾患は悪化する一方でついに休職し、さらに退職せざるをえなくなる。抜け殻のようになって出身地の小さな地方都市〈八保市〉に戻ると、不思議に病は快方に向かった。…しばらく気力が失せたまま、アパートの一室に「引き籠もり」状態の生活を送る。失業保険も切れ、預金残高も減っていく。何か自営業を始めようと決意する。お好み焼き屋を考えたが、支障もあって諦める。
そこで調査事務所をやることにした。経験はない。病み上がりで体力もない。「男はタフでなければ生きていけない」…そんな自信は全くない。だから「犬捜し専門(希望)」の調査事務所なのである。犬捜しなら学生時代のアルバイトで経験したことがある。「紺屋S&R」サーチ&レスキューである。迷子になった可愛い犬を探します、猫捜しもOKだ。飛べないので逃げた小鳥はお断りだ。身上調査、素行調査、失踪人調査は受けるつもりもない。広告をどうしよう。隣の〈小伏町〉の役場で働く大南という友人に「犬捜し専門(希望)の調査事務所」をやると話すと、「よし、協力するよ」と友達がいのあることを言った。
探偵業の市場規模がどのぐらいあるものか、私には全く分からない。地方の小都市で、しかも「犬捜し専門」で、どれだけ依頼があるものだろう。と思いながら読み進む。

雑居ビルでの開業初日、殺風景な事務所の電話がいきなり鳴る。この電話番号はまだ誰にも知られていないはずなのに。相手は年配の男らしく、目の前の公衆電話からかけているという。大南からの紹介で「おたくさんは、きっと親身に聞いてくれるとえらい薦めてくれたもんですから」…犬捜しではないらしい。でも追い返すわけにはいかない。あ、まだ名刺を作っていない。
佐久良且二。依頼は連絡がつかなくなった孫娘の佐久良桐子を捜してほしいというものだった。彼女は東京でシステムエンジニアかプログラマをしていたらしい。それが実に用意周到に、かつ突然失踪した。聞けば確かに謎めいて、シリアスだ。まるでミステリーではないか。これが八月十二日だ。
翌朝、雑居ビルの表口に、サマージャケット、色むらのある古ジーンズ、明るい色の茶髪を逆立て、ポーズをとるように壁にもたれかかった若い男がいる。無視して通り過ぎようとすると、男が突然前をふさいだ。なんだ。「お久しぶりっす、紺屋部長!」…「ハンペーか」「そうっす!」半田平吉…子供の頃からハンペーとしか呼ばれなかった剣道部の後輩だ。話があるというので事務所に招じ入れる。「俺がいま何をやっているのか知っているのか」「ええ、大南さんから聞きました」…また大南か。「依頼なら受けんぞ」「いえ、違います」「じゃあ、なんだ」「ええ…俺を雇ってください!」
ハンペーは「トレンチコート、ドライマティーニ、リボルバー!」の探偵に憧れ、フリーターをしながら「こういう機会を待っていた」という。それにしてもレイモンド・チャンドラーが生み出したフィリップ・マーロウは、憧れの探偵の祖型らしい。この小説にはもう一人、サングラスにカーキ色のコート、黒のビートルに乗った探偵が登場する。真夏なので当然額に汗をかいている。
「…いや分かっています、現実はそんなもんじゃないっすよね。でも憧れの最初ってそんなものでしょ。浮気調査でも結婚相手の身元調査でも、なんでもやりますよ」「犬捜しはどうだ」「犬っすか、やりますよ」「うちは人を雇う予定も、余裕もない」「全部歩合でいいっす」…
突然ドアがノックされ、初老の男が入ってきた。小伏町の谷中集落の自治会長だと名乗り、大南の紹介だという。まだ名刺を作っていない。男が依頼の件を切り出す前に、立ったままのハンペーをじろりと見た。「この人は?」「あ、俺は事務所のもんす」…こうしてハンペーは強引に事務所の一員になった。
男の依頼は、集落の八幡神社の櫃に保管している古文書の解読である。犬捜しではない、大南ぃ…。古文書の件はハンペーに「お前の好きにやってみろ」と振った。ハンペーは頼りなさそうな顔をした。開業二日で二件の依頼だ。この二つの全く無関係な調査は、後に示唆的に絡み合う。

夜、個人サイトに置かれたJavaを介したチャットをやる。参加者は多くて四人、大抵の場合、紺屋こと「白袴」と、直接面識のない「GEN」の二人だけだ。白袴が調査事務所開業二日をチャットで報告する。GENは桐子を〈失踪さん〉と呼び、「ご同業だ(笑)」「きっと納期に間に合いそうになかったに違いない。同情します」「僕でできることだったら力になるんで、言ってください」と申し出た。長一郎のインターネット関連の知識は、ほとんどGENに教えられたものだ。GENの申し出は心強い。
ハンペーの方は順調だった。郷土史を研究している高校の先生から、郷土史家の江馬常光という人がだいぶ以前に解読し、「戦国という中世と小伏」という本に書いているらしい。小伏町立図書館に行ったら貸出中だ。予約票を書いて外に出ると学生風の若い男に声をかけられた。温和しそうなその男は「鎌手」と名乗った。

佐久良桐子は自分のサイトを持っていた。しかし、あるときからインターネットの中で「襲われ(フレームを食らい)」たのである。ネットストーキングにあっていたのだ。フレーマーは彼女の勤務先とその場所を特定し、住まいを特定し、現実世界にストーカーとして立ち現れて、彼女を襲った。彼女は恋人と別れを告げ、会社を辞め、アパートを引き払い、姿を消した。
…GENがウオッチサイトの中に「エマvs.蟷螂事件」を見つけた。「エマ」は桐子の、「蟷螂」は彼女のサイトを炎上させた相手のハンドルネームである。この事件は分類では典型的なタイプ2の「埋伏の毒」系であるという。「蟷螂クン」が一方的に斧を振り上げ、それに対する「エマさん」のレスは極めてつれない。やがて彼女は自らのサイトを閉ざし、さらにキャッシュも消したのだが…。
ネットストーカーから現実のストーカーとなった「蟷螂クン」は、彼女のサイトの過去の記述からその出身地を特定し、実家や立ち回り先を特定し、さらに祖父且二の家も特定した。桐子がどこに逃げようと、そしてどこに隠れようとも、どこまでも追い詰めるつもりらしい。極めて危険な男なのだ。おそらく危害が加えられるだろう。
GENが「武器を持っていってください。どうか気をつけて。白袴さんと失踪さんの無事を祈っています」と書いてきた。
八月十六日、長一郎は桐子が隠れ、蟷螂が追ったであろう山に入った。…しかし間に合わなかった。長一郎は、その「遺品」らしき物を見つけた。

米澤穂信は学生時代からウェブサイトにその作品を発表してきたという。インターネット関連の知識は相当のものなのだろう。その知識はこの作品の中で大きな位置を占める。しかし私のように大した知識がなくても、ミステリーとして大いに楽しめるのである。

米澤穂信「犬はどこだ」
(創元推理文庫)