奇跡の復活(1)

ある年ある日の、競馬における感動的な奇跡は、ほんの一瞬の出来事なのである。しかしそれは、大河ドラマのような人馬の蹄跡から生まれる。

1931年、宮内省下総御料牧場はアメリカから三頭の受胎した牝馬を輸入した。その産駒は「持込馬」となる。日本の近代競馬の黎明期からイギリス系の血統に偏っていたサラブレッドに、アメリカの血を入れようというのである。その三頭は基礎牝馬としての期待を背負っていた。
キャンプファイヤーの子を受胎したフェアリーメイドンは、日本での繁殖牝馬としての登録名を「星旗」と名付けられた。生まれた仔は牝馬で、クレオパトラトマスとして帝室御賞典を勝ち、月城と名付けられて繁殖入りした。星旗はさらに1939年(昭和14年)の第8回ダービー馬クモハタ(父トウルヌソル)を出した。クモハタは戦後種牡馬となり、数多くの名馬を輩出した。
サーギャラハットを付けられたアイマベービィは「星若」として登録され、生まれた牝馬エレギヤラトマスは帝室御賞典を勝ち、月丘として繁殖入りし数々の名馬の牝祖となった。
もう一頭、マンノウォーの子を宿したアルザダは、日本での血統名を「星友」と名付けられた。彼女が生んだのは唯一の牡駒で、月友と名付けられ、未出走のまま種牡馬となった。何しろ父マンノウォーは、今日も「20世紀アメリカの100名馬」の第1位の伝説的名馬なのである。21戦20勝、種牡馬としても数々の名馬、名種牡馬を輩出し、その赤毛を帯びた栗毛から、誰もが「ビッグレッド」と呼んだ。
月友も栗毛である。1944年(昭和19年)第13回東京優駿は、戦時のため東京能力検定競走として無観客で施行され、月友の産駒で栗毛のカイソウが優勝した。日本ダービー史で、カイソウはダービー馬なのである。カイソウは翌年軍馬として徴用され、名古屋第13方面軍兼東海軍管区司令官の乗馬となったが、名古屋大空襲の折に行方不明となった。戦後、月友産駒の栗毛のミハルオー、栃栗毛のオートキツがダービー馬となった。
さて、1937年(昭和12年)の第6回ダービーは牝馬のヒサトモ(父トウルヌソル)が優勝した。騎手は中島時一である(後に息子の中島啓之がコーネルランサーでダービーを勝ち、親子制覇を果たした)。発馬のバリヤーが上がったとき彼女の馬体は横を向いており、大きく出遅れたがレコードで圧勝した。ヒサトモ(久友)は星友の娘で、月友の半妹なのである。その後ヒサトモは帝室御賞典も大差で圧勝した。ヒサトモは「まるで無人の野を行くが如く」走ったらしい。その強さは、牝馬ながら1943年(昭和18年)の第12回ダービーを勝ち11戦全勝のまま引退したクリフジ(※1※2)より強かったという。
繁殖入りしたヒサトモは、戦時中でもあり体調も優れず、子出しが悪かった。産駒は十年間で四頭のみであった。二頭は成績不振、牡駒のヒサトマンは5勝し(種牡馬となったがその系統はすぐに途絶えた)、唯一の牝馬ブリューリボンも5勝した。
ヒサトモは戦後の食糧難を理由に牧場を出され、以前の馬主の元に送られたが、馬主が経営する海運事業の不振もあり、馬資源が不足していた地方競馬の戸塚競馬に彼女を売った。こうしてヒサトモは15歳6ヶ月で現役に復帰したのである。ヒサトモは戸塚や柏競馬場でわずか十八日間に5戦2勝し、次走に向けて浦和競馬場に送られて間もなく、心臓麻痺で死んだ。

(※1)クリフジの鞍上で手綱をとったのは、弱冠20歳の前田長吉で、日本ダービー史上の最年少優勝騎手である(戦後日本中央競馬会発足後のダービー最年少優勝記録は、田島良保がサラ系の雑草ヒカルイマイで勝ったときの23歳)。翌年満州に出征した前田は、敗戦後シベリアに抑留され23歳で死亡した。戦争がなければ、間違いなく大騎手になったであろうと言われている。
(※2)2007年、ウォッカによって牝馬によるダービー優勝が64年ぶりに成し遂げられた。牝馬のダービー馬はヒサトモ、クリフジ、ウォッカの三頭のみなのである。

ヒサトモの娘ブリューリボンも子出しが悪く、産駒の成績も不振だった。ブリューリボンの娘トップリュウも同様で、ヒサトモの血は消滅しかかっていた。
大阪で東海パッキング工業という会社を経営する内村正則は、1967年の晩夏に、地方競馬の馬主で馬を購入予定の仲間に同行し、北海道を旅行した。彼自身も地方競馬の馬主資格を取得したばかりで、気に入った馬がいれば購入したいと考えていた。
彼等は浦河の田中牧場に立ち寄り、元気に放牧場を駆け回る若駒たちを見た。ただ一頭、厩舎に淋しげに繋がれたままの牝の若駒がいた。内村が田中場長に尋ねると、脚元が悪いのだという。生まれつき変形していて走るとすぐ腫れ上がるらしい。そのためセリに出しても売れず、次のセリも取り止めにしたという。買い手がいなければ繁殖にあげることも考えられるが、脚部の欠陥が子に遺伝する懸念もある。また血統的に活躍馬も出ておらず、祖母も母もあまり子出しが良くなかったという。ではどうするのかと訊くと場長は言葉を濁した。小柄な彼女の目は悲しげであった。その子の黒く潤んだ瞳を見ていると堪らなくなった。「可哀想に」…内村は無類のお人好しで人情家であり、また義侠心の持ち主であった。「私が買いましょう」と彼は言った。衝動買いである。
競馬の知識はあまりなかった内村である。普通なら誰も買わない馬であろう。内村はその牝馬をトウカイクインと名付けて走らせた。トウカイクインは脚元の不安を抱えながら、無事に56戦も走り6勝を挙げた。地方競馬の深いダートコースが、脚にあまり負担をかけなかったのだろう。
トウカイクインの健気な頑張りに感動した内村は、改めてその血統を調べ直した。母トップリュウ、祖母ブリューリボンである。曾祖母の繁殖名・久友についても改めて調べた。その父は日本の競馬の黎明期を支えた名種牡馬トウルヌソルではないか。しかもヒサトモは牝馬ながら第6回ダービー馬であり、帝室御賞典も大差で圧勝した馬ではないか。その母はアメリカから輸入された「星友」で、半兄は名種牡馬「月友」ではないか。さらに内村は知った。星友、久友、ブリューリボン、トップリュウの牝系は、もはや風前の灯火なのである。義侠の人、人情家の内村は決意した。この牝系は俺が守る。
内村はトウカイクインの妹トウカイモアーも購入した。幸いなことに岡部牧場で繁殖に入ったトウカイクインは子出しが良く、九頭の母となり、うち牝馬は五頭であった。内村はそれを全て自分の所有馬とした。トウカイガゼル、トウカイミドリ、トウカイリボン、トウカイマリー、トウカイポーラ。

1979年、内村は中央競馬の馬主資格をとった。勝負服は「白、青山形一本輪、桃袖」である。
トウカイミドリは栗東の田所厩舎に預けられたが、生命も危ぶまれる大怪我をした。奇跡的に助かったものの未出走のまま終わり、岡部牧場で繁殖にあがった。彼女も子出しが良かった。1981年生まれの底力血統ネバーベンド系ブレイヴェストローマンの牝駒は、トウカイローマンと名付けられ、栗東の中村均厩舎に預けられた。翌年に生まれたノーザンダンサー系ナイスダンサーの牝駒はトウカイナチュラルとして松元省一厩舎に入った。
1984年の第45回オークス。トウカイローマンは岡富俊一騎手を背に、天才騎手・田原成貴騎乗の圧倒的一番人気のダイアナソロンを破って優勝した。馬主として内村の初重賞、初GⅠ制覇である。彼の祈りにも似た信念が実り、ヒサトモは数えて六代目にして復活したのである。
その翌週シンボリルドルフが無敗のまま第51回ダービーを圧勝し、皐月賞に次いで二冠を制した。内村はルドルフを「畏敬」し、決意した。ルドルフが種牡馬になったら、その種付け権利を入手してローマンに付けよう。実現し仔馬が生まれれば、ダービー馬とオークス馬の子である。
その後トウカイローマンは低迷した。86年に七冠馬シンボリルドルフは引退し種牡馬になった。ローマンは不振のまま競走生活を続行した。
87年に内村はルドルフの種付け権利を入手した。ローマンを引退させ繁殖にあげようと思っていた矢先、彼女の調子が上向いたのである。迷ったあげく、現役を続行させることにし(※3)、代わりに未出走のまま引退して長浜牧場で繁殖入りした妹のトウカイナチュラルに、ルドルフを付けることにした。

(※3)87年10月の京都大賞典、この春デビューした武豊はトウカイローマンに騎乗し初重賞勝ちを果たした。