遙か彼方の雲に

セイウンスカイ…その馬名は、お線香のかそけき煙が、青空にたちまち溶け込むように消えていく様を思わせる。セイウンスカイはそのような、そこはかとない悲しみや、因縁因果や、小さなドラマの連なりを想起させるのだ。
西山正行は著名な馬主だった。日本の競馬界において、彼が馬主・生産者として果たした役割は、決して小さくない。また競馬ファン、特にオールドファンにとって、その数多の馬たちの劇的なレースシーンを現出させた功績は、決して忘れるものではない。
西山は1955年に自らの会社を設立し、その事業を多角的に伸張拡大させ、不動産業、レストランやクラブ等の飲食業、ゴルフ場、リゾートホテル等の観光業を中心とした西山興業を経営してきた。
西山は早くから馬主となっていたが、彼を有名にしたのは、黒いちっぽけな安馬、稀代の癖馬カブトシローであった。馬名のシローは西山が銀座に出していたナイトクラブ「シロー」から付けられた。そのカブトシローが天皇賞(春)で2着に負けたことに腹を立て、彼を売却してしまったのである。しかしその後カブトシローは西山を嘲笑うかのように、天皇賞(秋)と有馬記念を連勝した。自分を捨てた元主人へのアッカンベーである。その後カブトシローの新しい馬主は、二流三流血統の彼の勝利に味をしめ、同じような安馬を買い集め、やがて破産に至った。裏切りこそが彼の本質だったのだ。
西山は馬好きが昂じ、1966年に北海道鵜川に400ヘクタールの西山牧場を開設した。当時この敷地面積は日本最大の広さであった。社台、メジロに次ぐ牧場として、250頭前後の繁殖牝馬を所有し、毎年200頭前後の馬を生産していた。また海外から何頭もの種牡馬を導入し、自場に繋養、供用した。1973年にはリーディングブリーダーとなって、社台の連続記録にストップをかけた。
西山牧場の主な生産馬はタイホウシロー(西山所有)、キョウエイアタック、 サクライワイ、キョウエイグリーン、フェアスボート、リキアイオー、サクラエイリュウ、キタノリキオー、ニシノエトランゼ(西山所有)、ニシノライデン(西山所有)、ブレジデントシチー、アイアンシロー(西山所有)、ニシノフラワー(西山所有)、ブランドアート(西山所有)…そしてセイウンスカイ(西山所有)。西山所有馬の冠名にはニシノ、シロー、ブランド、セイウンなどがある。

バブルが弾け、さしもの西山牧場も経営が悪化していった。サラブレッドを大量生産しても売れなくなったのである。牧場の繁殖牝馬の更新も進まず、しかも導入した種牡馬はことごとく失敗であった。
西山牧場の主な種牡馬は、オーロイ、ガバドール、ザラズーストラ、マタドア(これは成功した)、アワバブー、マニックス、ティンキング(山野浩一がスピードのない短距離馬と酷評した)、フォワードパス、レッドアラート、タンディ、シャンペンチャーリー、ケラチ、ファーストドン、スカラマンガ、シェルシュールドール、シェリフズスター…。内国産種牡馬はダイコーター、ホウシュウエイト、シルクテンザンオー、ニシノライデン、ニシノミラー…。
1996年、西山正行は経営の実権を子息の茂行に譲った。茂行は経営規模を縮小し少数精鋭主義を取ることにした。2、3年かけて繁殖牝馬200頭を売却・処分し、自場に繋養していた種牡馬も全て売却・廃用処分にした。
セイウンスカイの父シェリフズスターも廃用となり、引き取られて行った先で行方不明となった。後年伝えられるところでは、草競馬に出走させようと調教するうち、高齢だったため心臓麻痺で死んだとのことである。
イギリス産シェリフズスターはクラシックの有力馬とされたが勝てず。古馬となってGⅠのコロネーションカップとフランスのGⅠサンクルー大賞に勝った。父は底力のあるポッセで、種牡馬として日本に出されたが事故で供用できなかった。ポッセの父はアルゼンチン産のフォルリで、アメリカで活躍し名馬フォアゴーを出した。日本には珍しい血統である。
ちなみにシェリフズスターの半兄ムーンマッドネスも、英セントレジャーとサンクルー大賞を勝った名馬で、ジャパンカップにも二度出走し勝てなかった。引退後は日本で種牡馬になったが、このヨーロッパの底力血統は失敗している。
西山正行はこのシェリフズスターを輸入し、ジャパンカップに出走させようとしたが脚部に不安が出て、そのまま西山牧場で種牡馬となった。しかしその産駒は全く走らなかったのである。
西山牧場は整理に当たりシェリフズスターの子どもたちも処分した。残った数頭のうち牡駒の一頭は栗東の厩舎に入る予定だったが、その調教師は引き取リを断ってきた。やむなく、騎手、調教師時代を通じて親しかった保田隆芳の子息で、美浦に開業したばかりの保田一隆厩舎に預託することにした。
その見栄えのしない芦毛の仔馬がセイウンスカイだったのである。保田はあまり期待しなかったが、シンボリ牧場系の母系には魅力を感じた。
やがて保田厩舎の関係者は「これは走る」とセイウンスカイに期待を寄せるようになった。セイウンスカイは4歳(現馬齢3歳)の1月、徳吉孝士を鞍上に1600の新馬戦にデビューし、低評価にもかかわらず、好位から早めに先頭に立って6馬身差で圧勝した。続くジュニアC(2000)も低評価だったが、逃げて5馬身差の圧勝。俄然注目されるようになった。しかし徳吉騎手は地味で不遇な騎手であった。
弥生賞はスペシャルウィークに差されて2着に敗れたが、敗因はソエだったと言われている。しかし西山は徳吉を降ろし、以後は保田も勧める横山典弘騎手で臨むことになった。
皐月賞は二番手を進み、四角手前で先頭に立ち、ゴール前で猛追してきたキングヘイローとスペシャルウィークを押さえ込んだ。陣営の誰もが牡馬クラシックの初制覇だった。
セイウンスカイの皐月賞優勝をフロックと見る向きもあり、ダービーは3番人気だった。レースでは息を入れるところがなく、一度先頭に立ったもののスペシャルウィークに躱され、14番人気のボールドエンペラーや15番人気のダイワスペリアーごときにも遅れをとって、4着に敗れた。
夏は西山牧場で静養し、秋の初戦は古馬混合の京都大賞典を選んだ。対戦する古馬は天皇賞馬メジロブライト、有馬記念馬シルクジャスティスであり、善戦マンのステイゴールド、重賞出走の常連ローゼンカバリー等がいた。しかし果敢に後続馬を引き離して逃げ、四角で一杯になったかのように馬群を引き付け、直線で再び後続を突き放し、天皇賞馬メジロブライトを押さえ込んだ。セイウンスカイの強さもさることながら、横山典弘の大胆で巧みな騎乗は絶賛ものである。
古馬を破る力、長距離向きそして晩成型の血統…それでも菊花賞は2番人気だった。セイウンスカイは暴走に近い逃げをうったが、折り合っていたそうである。やがて一気にペースダウンし、淀の坂下から再びペースを上げ、スペシャルウィーク以下を突き放してゴール板を過ぎた。
騎手の腕は長距離レースに出る。横山典弘はさすがである。この人馬は菊花賞のレースレコードを叩き出し、3000メートルの世界レコードを叩き出したのである。ちなみに菊花賞の逃げ切り勝ちは、ハククラマ以来の38年ぶりのことであった。

暮れの有馬記念は1番人気に推されながら、同年生まれのグラスワンダーの4着に敗れた。
JRA賞最優秀4歳牡馬は、ジャパンカップを勝った同年生まれのエルコンドルパサーが選ばれた。セイウンスカイは皐月賞と菊花賞の4歳クラシックの二冠を勝ちながら、選ばれなかったのだ。
しかしこの世代はなかなかのものであった。スペシャルウィーク、セイウンスカイ、グラスワンダー、エルコンドルパサー…。

古馬になってからのセイウンスカイは、日経賞を差して勝ったものの春の天皇賞は敗れた。夏の札幌記念は勝ったものの、秋の天皇賞も敗れた。レース後に屈腱炎を発症し、長期休養は一年半に及んだ。
再び春の天皇賞で再起を図ったが、試運転のレースに出走もせず、いきなりの天皇賞出走はさすがに無理があり、勝ったテイエムオペラオーから16秒差、最下位の12着に惨敗した。その後、宝塚記念を目指したが、脚を痛めて引退した。

セイウンスカイは2002年からアロースタッドに入り、種牡馬になった。花嫁の数は極めて少なく、それもお世辞にも良質の肌馬とは言えなかった。産駒の成績も上がらなかった。
2007年から西山牧場に移った。もう繁殖牝馬は西山茂行が所有する馬に限られていた。翌2008年、西山牧場はアラブ首長国のマハマド殿下の日本法人ダーレー・ジャパン・ファームに売却された。所有の繁殖牝馬は他の牧場に預託することにし、西山牧場は完全にサラブレッド生産から手を引いたのである。
西山牧場は日高に縮小移転し、セイウンスカイもそこに移った。年間の花嫁数は2、3頭に過ぎない。2011年、彼は馬房に頭を強打して即死し、牧場の片隅に埋葬されたという。
セイウンスカイよ、上を見ろ。昼、見上げれば蒼空で、小さな雲も青みを帯びて浮かんでいる。夜、見上げれば億兆年の彼方に星雲が渦巻いている。あれはアンドロメダか…。セイウンスカイよ、遥か彼方の雲になれ。