いやな感じ

高見順に「いやな感じ」というアナーキーな名作があった。近年、どうも「いやな感じ」が続いている。山本七平の「『空気』の研究」というのもあった。いやな感じは、この空気のようでもある。何か漠然と、日本全体の空気が気持ち悪い、居心地が悪い。日本人の思考パターンや、方向が気持ち悪い。TPPといい、安保法制といい、新国立競技場といい、気持ち悪い。

私たちが若かった頃、解放、革命、自由という言葉は、何か至高の、正義の、大義のワードとして流布していた。学生たちの多くは「ベトナムの解放」と言えば正義だと思い、「帝国主義」を悪だと思った。それは長い思索や深い思想から出たものではなかった。幼稚で無思慮なポジティブワードやネガティブワードの一つだったのだ。これらの言葉はレッテルになりやすく、そのほとんどはワンフレーズである。改革、革命は正義で、反動、反革命は悪であり敵なのである。学生たちは幼稚に、それらのレッテル語を多用した。
煽動者も権力者たちもポジティブワードを一早く我がレッテルとし、ネガティブワードを敵対する陣営のレッテルとして貼り付ける。例えば、自分たちの陣営は聖域なき改革派で、彼らは守旧派、抵抗勢力であると。これらのワンフレーズは、思考を停止させるばかりか、使用者を酔わせ、興奮させる。
煽動者は自らの言葉「聖域なき構造改革」「郵政民営化」に酔い、その単純な言葉で、単純な論理(理屈、詭弁)を付ける。マスコミも大衆も、そのポジティブワードの単純なレッテルとワンフレーズに思考を停止させ、その詭弁を易々と受け入れ熱狂する。マスコミも大衆も、レッテルとワンフレーズの「ノリ」を煽り、その「空気」をつくり出す。そして「雰囲気」「空気」には反対しにくい。
「TPPに参加し開国します」ということに反対すると、「鎖国するのか」「グローバリズムの流れは止められない」と言う。「開国か鎖国」と問われれば、この二語はポジティブワードとネガティブワードに分かれ、思慮を欠いたノリと空気を生み出すのである。TPPがどんなものかを深く考えることはなく、ただ開国という言葉に酔うのである。
幼稚なポジティブワードやレッテル…いわく開国、いわく維新、船中八策。まるで幕末ごっこ志士ごっこだ。「ごっこ」は当然幼稚である。ろくな思索もなく、大阪都構想だ、カジノだ、道州制だ、一院制だ、グローバル化の流れは変えられないのでTPPだ…。批判者に対してはネガティブワードのレッテル貼りを連発し、それをツィッターで拡散する。それがノリであり、空気をつくり、大衆の思考を停止させる。マスコミがそれを煽る。「平成の開国」響きも何となく良い。こうして政治家が演説し、財界からも「これがラストチャンス」「TPPに参加しなければ、世界の孤児になる」と噴飯物の脅しが入る。「開国」「ラストチャンス」「世界の孤児」「バスに乗り遅れるな」…こうして幼稚な発想と言葉が流布し、気持ちの悪い空気に覆われ、それに何となく支配されてしまうのだ。
かつて石原はTPPに関し、それを読売グループ挙げて推進するナベツネを、「今に吠えヅラかくよ」と嗤笑したが、TPPを支持する橋下維新と合流するに当たり、「小異を捨てて大同につく」と言った。そして離合集散。

山本七平によれば、大日本帝国陸軍は「大に事(つか)える主義」で、「すべて欠、欠、 欠…」でも「員数を尊ぶべし」であり、絶対にやってはならないと教えていたことや、 絶対に無理なことを「やれ」と命ずるから、命じられたものは「思考停止」になるのだと言った。帝国陸軍海軍に関わらず、一兵卒から士官、高級軍官僚に至るまで、 全てが思考停止状態に陥らねば「やれ」ないのである。 彼はこの「思考停止」を「日本的」なものと考えていた。
おそらく「公聴会」はアリバイづくりであり、「有識者会議」も仕込み、ヤラセ、あるいは「思考停止」状態の空気で作られた「承認」なのである。
原発の再稼働も福島第一原発の冷温停止と収束宣言も、実に「日本的」な空気と思考停止で作られた「員数合わせ」「ステップ合わせ」「スケジュール合わせ」なのではないか。「冷温停止や収束の定義なんてものはいくらでも何とでもなる。収束と言ったら断固収束せねばならぬ! 無理でも断固やり遂げるのが大和魂じゃ! 国家プロジェクトである。三千、四千億円かかろうが、現行案のまま作らねばならぬ。世界に誇れる競技場を作らねばならぬ。絶対ラグビーのワールドカップに間に合わせろ! 足を靴に合わせろ! それが帝国軍人たる者の精神じゃ! 大和魂じゃ!」
山本七平は辻政信的煽動を「気魄演技」と言った。多くの兵士が、そして捕虜がこの気魄演技のために死んでいったのである。そして日本は、まさに気魄演技の無理難題のため無残なる結末を迎えるのだ。

「日本という国はすばらしい機械だけど、一つだけ部品が欠けている。つまりブレーキです」と言ったのはアレックス・カーであった。
彼とその著作「美しき日本の残像」「犬と鬼」については、だいぶ以前に二度ほど触れた。彼は「美しき日本の残像」で日本の自然、美、日本の伝統文化を賞賛し、急速に失われていくこれらを哀惜した。この地球上で日本ほど温暖で、四季の変化も美しい土地はないのではないか。彼は屋根の茅葺きや甍や土壁、障子に至るまで、日本が大好きだったのだ。
それから十年も経たずに書かれた「犬と鬼」で、彼は日本に三行半を突きつけたかのようであった。ローマができたことをなぜ京都はできないのか、パリができたことをなぜ東京はできないのか。…日本は自らその美も文化も破壊し続けて止まらぬのである。こうして確かに日本は経済大国となった。しかし「日本はもうだめだ」…カーの日本論は正鵠を射ていた。
これも以前書いたが、渡辺京二に「逝きし世の面影」という名著がある。幕末から明治初期に来日した外国人たちが残した書簡、報告書、日記等を博捜した一大労作である。彼らが口々に言ったことは…神様は不公平だ。この極東の列島はなんと自然に恵まれた、なんと美しい所なのだろう…。この美しい自然や 育まれた伝統文化は、早くも明治十年前後から急速に失われていくのである。外国人たちは言った。我々は間違っていたのではないか、この国に西洋文明をもたらしたことは大きな過ちだったのではないか…。
ブレーキのない優れた機械は、明治維新時の危機を乗り越え、日露戦争にも危うく勝利し、欧米にキャッチアップすべく全力で走り続けた。こうして日本は日中戦争にのめり込み、誰もそれを止めることができず、さらにアメリカとも戦端を開いた。その戦争の拡大を誰も止めることができなかった。この機械は自壊自滅以外に止まりようがなかったのだ。

そして戦後、再びブレーキがないまま走り出した。ダム建設計画も一度決めると、それが何十年かかろうが、またある時点ですでに無用のものと判定されようが、もう誰も止めることができないのだ。高速道路建設も、無用で長大なばかりの河口堰も、ギロチン干拓事業も、原発建設も、その再稼働も、核燃料サイクルや核廃棄物処理の政策や施設建設も、何千億円何兆円かかるかも不明のまま、一度走り出したら最後、もう誰にも止めることはできない。
なぜならそれらには地方の活性化と経済成長という大義と、ビッシリと複雑な利権や票がからみ付いており、誰も中止の責任を取りたがらないからだ。福島原発のような重大な事故、財政破綻等による自壊自 滅以外に、もう止まりようがないのである。一度スタートしたプロジェクトや政策は「途中で変えられない」のが、日本の度し難い性癖、あるいは病理なのである。
福島第一原発も、政府は早々と収束を宣言し、大飯原発を再稼働させ、さらに停止中の各地の原発を再稼働させようとしている。 四十年前に走り出した原発推進政策は、もう止まらないということなのだ。大飯原発をはじめとする再稼働は、電力業界と経済界の強い要請と、国の「メンツ」による。
経済的理由が安全に優先することは、決して日本的な現象ではない。例えば…アメリカ東海岸の海辺の田舎町アミティは、のんびりとし、さしたる産業も無い。強いて挙げれば夏に海水浴客で大いに賑わう。その海に巨大な鮫が現れ海水浴客の若い女性が襲われた。町の警察署長ブロディは翌日浜辺に打ち上げられた遺体を検視して、サメに襲撃されたものと断定した。彼はビーチを遊泳禁止にしようとするが、海水浴と観光で成り立つ町は、これからかき入れ時を迎えるところなのだ。市長や街の有力者たちはビーチの遊泳禁止を受け入れなかった。こうして海水浴を楽しんでいた少年が、巨大サメの第二の犠牲者となる。…経済優先がもたらす悲劇、これが映画「ジョーズ」の教訓なのであった。

カーは「犬と鬼」を上梓した翌年、「『日本ブランド』で行こう」を出版した。彼はその中で、日本に四つの要素を提言した。
第一は「意識」、「こんなものをやってはいけない。止めなければならない。しっかりしましょう」という意識を持つこと。第二は「勉強」、「例えばパリ、ローマはどうしてああなのか勉強しなければならない」。第三に「融通」、「いままでのやり方を変える」自在な融通性である。第四に「勇気」、「変えられないというのでは何もできないから、従来のシステムを変える勇気」である。
そして彼は「日本はもうだめだ」という日本国民の意識を「一筋の光明」と言った。カーが「『日本ブランド』で行こう」で示した四つの提言から早くも十年余が過ぎた。これは今もそのまま当てはまる。原発も、新国立競技場も…「こんなものやってはいけない。止めなければいけない」と強く意識すること。
「ドイツではなぜ原発廃止を決議できたのか、再生可能なエネルギー政策とその推進策はどういうものなのか」を勉強すること。いままでの政策や計画に縛られず、融通自在に考え、やり方を変えること。変える勇気を持つこと。

「散歩」のついでに、ギリシャに触れてみたい。…EU、ユーロは壮大な失敗だったのだ。加盟「国」は、国であるにもかかわらず、通貨発行権も持たない。つまり財政・経済政策に関して自由裁量の幅は極めて狭く、その政策に多様性はない。ギリシャには「緊縮財政」しかないである。あるとすれば、ユーロ圏から離脱し、独自通貨ドラクマの発行であろう。
私の脳裏にはギリシャに関する二つの視像が焼き付いている。ひとつはテオ・アンゲロプロス監督の長大な映画「旅芸人の記録」である。そこには第二次世界大戦前夜から戦後数年のギリシャの歴史と政治の混乱が、淡々と描かれていた。ホメロスを意識的に継承した叙事詩的な作品である。
その映画が公開される前、私はギリシャを旅していた。そのときもギリシャは混乱していた。軍事政権が崩壊し、戦後初めての総選挙を控えた政治運動のただ中だったのだ。毎日毎夜デモ隊がパネピスティミウ坂をうねり、シンタグマ(憲法)広場は群衆に溢れていた。若者たちの政治的運動の拠点はアテネ工科大学だが、そこで学生が死んだのだ。
その旅の初日、私は腹を空かせ小さなタベルナ(食堂)に入った。狭い店内は人でいっぱいだった。彼らは私を一瞥したのみで無視した。一人の男だけが立ちあがって演説をぶっていた。話し終わって男が座ると、ひとりの老女が立ち上がり蕩々と演説を始めた。次に店主とおぼしき男が演説をした。次は鞣し革のように日に焼けた老人が演説をした。次は長身の若者が演説した。その間誰ひとり、口をはさむ者も、ヤジを飛ばす者も、拍手をする者も、同意の声を挙げる者もいない。ただじっと聞き入っているのだ。私もただ立ったままそれを見ていた。
演説が一巡したのだろう。人々が私に笑顔を向けて声をかけてきた。そしてここに座れと席を示した。店主が「何にする?」というようなことを言った。私は「メニューは?」と尋ねた。「そんなものはない」と言うようなことを店主が言い、みんなが笑った。店主は私に「こっちへ来い」と言いながらゼスチャーで促した。招き入れられたのは狭い厨房の中である。店主は一つ一つ鍋の蓋をとって見せ「どれにする?」と尋ねた。私は「これと、これと、これを」と指で示した。主人はにっこり笑って頷いた。
さて、店内で行われていた演説会は、来る総選挙で「王制か、共和制か、共産(社会主義)制か」を、それぞれが自らの持論を展開していたのである。
そうだギリシャは民主主義(デモクラティア)の発祥地だったのだと、つくづく思い至った。その後私は、ギリシャのあちこちで同じ場面に遭遇した。選挙の結果、 カラマンリスの新民主主義党が勝利して共和制となり、その後の国民投票で王制の廃止が決定したのである。…