伝説のカブトシロー

寺山修司の数多くの競馬エッセイの中でも、カブトシローという馬について論じた作品は最も優れたものである。彼はカブトシローを度々取り上げた。「影なき馬の影」「カブトシロー論」等である。それらはカブトシローという馬の異常性、悪魔性、幻想性、裏切り、八百長、破滅という負の言葉で彩られていた。
カブトシローは昭和39年夏にデビューし、43年の暮れまで走っていた。私はカブトシローのレースを同時代的に目撃していない。作家で血統研究家の山野浩一や寺山のエッセイで「魔王カブトシロー」を知り、強い興味を抱いた。寺山の言葉を借りれば「想像の荒野」へと駆り立てられたのである。
後年、東京競馬場内のミュージアムで、伝説の馬カブトシローの「裏切り」のレース映像を、繰り返し繰り返し何度も見た。それはモノクロで不鮮明に粗れた画面であった。
古いレース映像の中のカブトシローは、ちっぽけで、格好悪く、すぐにカメラフレームの外に置き去りにされ、レース実況中その名が呼ばれることもほとんどない。その名はゴール寸前に突然叫ばれるのだった。映像中に伝説の魔王の片鱗は何処にもないのだが、最後に絶叫される名がカブトシローなのである。その撃破した人気の実力馬のことや、数々の裏切りの戦績を考えると、彼は確かに凄みのある魔王だった。

カブトシローの父はオーロイという、たったの1勝馬で、エリザベス女王の所有馬だった。種牡馬としての実績も全く無く、底力血統の名馬ハイペリオンの血を引くという理由で日本に輸入されたのである。オーロイは晩成型の長距離血統だろう。その子供たちのほとんどが全く走らない駄馬であった。
母はパレーカブトといい、5勝を上げた馬だが、気性が荒く、血統は三流だった。彼女が名牝と言われるのは後のことである。曾祖母は輸入馬でメイビイソウといった。つまり「かもね…」「たぶんね」という意味の、何ともいいかげんな、人を喰った名前なのである。
カブトシローはパレーカブトの初仔、三流血統、黒鹿毛の420~30キロ台のみすぼらしい馬体、気性も悪い…そんな馬だったのである。2勝目を挙げるまでに14戦を要し、21戦目にダービーに出走し人気薄で5着に入線して賞金を獲得した。その年の晩秋、人気薄で重賞のカブトヤマ記念を制覇した。
カブトシローは全く人気薄の時に勝ち、本命になると惨敗した。出遅れ癖があり、馬群からポツンと一頭大きく離され、トボトボと後を追った。ゴール直前、まるで内ラチに身体を擦りつけるように飛んで来て、全ての馬を抜き去った。
寺山は「人生は四コーナーから」だとカブトシローを讃え、冴えない中高年たちを励ました。だがある時は、大きく離されたままゴールインした。カブトシローのレースデータには「殿り冴えず」「後方まま」「殿り伸びず」等と書かれている。
彼は追い込み脚質の馬と見られていた。だがある時は、向こう正面から引っ掛かって暴走し、ある時は博打的大逃げをうった。スタンドは大きくどよめき、溜息をついた。これでカブトシロー絡みの馬券は紙屑となったも同然だからである。しかしその まま大差で逃げ切ってしまうと、再びスタンドはどよめいた。
だがある時は、直線で馬群に沈んだりもした。データには「引掛かり後退」「逃げ一杯」等と書かれている。

実に分からない馬なのだが、確実なことはただひとつ。彼は本命になると惨敗し、 全く人気がなくなると人気の良血馬たち強豪馬たちを撃破するのだ。スタンドは常にどよめき、失笑し、嘲り、罵り、悲鳴をあげ、溜息を吐き、拍手した。
彼は酷使にも近く69戦も走った。14勝を挙げたが、その内容が凄い。天皇賞1着1回「離れ殿り一気」、2着1回、3着1回。有馬記念1着1回「向正面先頭、大差逃げ切り」、2着1回。これらのレースは真の底力を要求される。彼のこの成績は、 実に底力のある一流中の一流馬の証なのである。
カブトシローの主戦ジョッキー山岡騎手は、他の馬とレースで八百長の嫌疑をかけられ、競馬界を永久追放された。カブトシローのレースにも疑惑の目が向けられた。しかし彼の魔性のレースぶりは、加賀、大崎、久保秀、郷原、増田らが騎乗した場合でも同様だった。また途中で馬主が替わった。新たな馬主は三流血統カブトシローの成功で気を良くし、たくさんの二流三流血統馬を買い漁って破産した。またカブトシロー馬券に金を注ぎ込み、勤務先での横領がばれた男が逮捕された。
人々はカブトシローが翻弄した人生について囁いた。寺山もその一人である。寺山は魔王カブトシロー論で「競馬が人生の比喩なのか、人生が競馬の比喩なのか」と書いた。
やがて私はカブトシローの子を目撃した。その名はゴールドイーグル。黒いちっぽけな馬体の、地方競馬の馬だった。彼は一瞬、父の伝説を垣間見せてくれたのである。

(この一文は2006年5月4日に書かれたものです。)