文豪と競馬

エミール・ゾラは多作だった。彼はまるで競走馬の血統の系譜を作成するように、複数家系の数世代の物語を書き続けた。「居酒屋」も「ナナ」もその中の物語のひとつなのだ。
ナナはバリの貧民街から出て女優となった。彼女に演技力などはない。しかしその美しい肉体は求心力を持っていた。ナナはヴァリエテ座の「金髪のヴィーナス」で、その蠱惑的な肉体を曝し、劇場の観客を夢中にさせ、熱狂させていく。その強烈なエロチシズムは、どんな演技力も超えるものだったのだ。
「凄い!」と男たちは息を飲んだ。舞台の幕が降りると「ナナ! ナナ!」の名が、劇場全体を興奮と熱狂の嵐となって包み込んだ。ナナは、観客を群衆に変え、舞台を、劇場を、男たちを制圧した。
…やがて女優ナナは上流階級の男たちの高級娼婦ともなり、貴族のような生活に耽っていく。
ゾラは「群衆」の得体の知れぬエネルギーを描き出した。それは多数の人間が一箇所に集まり、ひしめき合い、一つの同じ関心事に興奮する「群衆」という巨大な塊となる。そして怪物のように、一つの集合意志となってうねり出すのだ。その中に呑み込まれた個人は、混雑そのものに興奮し、その一体感に我を忘れ、熱狂する。

1869年、ナナはパトロンに連れられ、馬車に乗って、第7回パリ大賞典を観戦に行った。このレースにパトロンの所有馬が本命として出走するが、彼が所有するもう一頭の牝馬も出走させていた。その馬にはナナと同じ名前がつけられていた。しかし馬のナナは最低人気だった。
ナナはパトロンの助言に従い本命馬を買った。最も手強い相手はイギリス馬のスピリットであった。多くの人たちは愛国的な気持ちからフランス馬の馬券を買うが、ある人は競馬に相当詳しいらしく、フランス馬はイギリス馬にかなわないと言うのである。
…レースはいよいよ最後の直線に入る。誰もがあまり期待していなかったナナが、何と先頭争いを演じながらゴールを目指している。馬群がゴールに近づくにつれ、十万人もの観衆の熱狂が高まっていく。馬群は雷のような地響きを立て、群衆の前に迫ってくる。群衆は柵際に詰めかけ、口々に叫び、どよめく潮騒に似た。ナナはイギリス馬スピリットをクビ差斥け、予想外の勝利を挙げた。
十万人の観衆はどよめき、やがてギャロップに移った馬たち、そしてナナに向かってその名を呼び始めた。「ナナ! ナナ! ナナ!」…その野獣の雄叫びに似た声の総和が一体となって、潮騒の轟きに変じ、競馬場全体に広がっていく。ナナ! ナナ! ナナ!… 群衆の熱狂と興奮は高まるばかりであった。フランス万歳! イギリスくたばれ! ナナ! ナナ! ナナ!
しかし群衆の心を占めているその名が、馬のナナなのか、あの有名な女優ナナなのか、無我夢中の興奮状態で分からなくなっていった。ナナにもそれは分からず、彼女は青いドレスをまとい、美しい金髪をなびかせ、まるで民衆の歓呼に応える女王のように、馬車の御者台の上に立ち上がった。
ナナ! ナナ! ナナ!…歓呼の潮騒はますます高まり、ブローニュの森の奥から、モン=ヴァレリアンへ、ロンシャンの牧草地からブローニュの平野へと広がっていった。
ナナは拍手喝采の熱狂と、降り注ぐ日差しの中で、太陽に似た金髪を風にまかせた。彼女はこの歓呼の熱狂は自分に向けられているのだと錯覚していた。ナナは、統制を失った群衆の上に君臨していた。
ゾラが描いたこの「群衆」は、やがてフランスの戦争に熱狂するリヴァイアサンのような「群衆」として描かれる。開戦、戦争は国民という群衆を盲目的に熱狂させるのだ。
…それにしても「ナナ」における競馬場のシーンは素晴らしい。おそらくゾラは競馬が大好きだったに違いない。

アーネスト・ヘミングウェイは1917年にイリノイ州のハイスクールを卒業後に、カンザスシティ・スター紙で半年ばかり働き、第一次世界大戦の赤十字社の運転手に志願した。彼は翌年、砲弾が炸裂するパリに着き、数日後には北イタリアの戦線に従軍した。しかし重傷を負ってミラノの病院に収容されてしまった。この体験が後年「武器よさらば」となる。
やがて帰国したヘミングウェイは、1921年に最初の妻エリザベス・ハドリー・リチャードソンと結婚した。彼はトロント・スター紙の特派記者として再び大西洋を渡ることになった。ヘミングウェイはハドリーと共に、あの20年代のパリに暮らした。パリの日々は、まるで「移動祝祭日」のようであった。
ヘミングウェイ夫妻は貧しかった。食事を抜き、いつも空腹だった。彼は本を買う金もなかった。ヘミングウェイはオデオン街十二番地の貸本屋兼書店のシェイクスピア書店に行って本を借りたが、その貸本文庫の支払いにも苦労した。彼はよく画家や音楽家や作家たちの溜まり場でもあるスタイン女史のサロンに顔を出し、彼女と文学の話をした。彼女はヘミングウェイに言った。「あなたはロスト・ジェネレーションなのよ」
ヘミングウェイとハドリーは夫婦仲が良かった。貧しいながら南仏やイタリアなどにも旅行している。ミラノのサン・シロ競馬場にも足を伸ばしているようである。この競馬場で出会った男を、パリ近郊の競馬場でも見かけている。このサン・シロ競馬場は真に底力のあるステイヤーでないと勝てないコースで知られ、フェデリコ・テシオ生産の名馬リボー(16戦16勝)は、ここで12勝を挙げている。
パリでもヘミングウェイはハドリーを伴って、パリ近郊のアンギャン競馬場やオートゥーユ競馬場などに行っている。彼は競馬を「内職」と呼んだ。彼等が暮らす貧しい界隈でも競馬新聞くらいは売っている。

アンギャンはパリから汽車で7マイルの保養地である。湖と温泉と大金持ちの別荘と、カジノと競馬場があった。アンギャンの競馬場は八百長で金をまきあげると噂されていた。
オートゥーユ競馬場は障害レース専門の競馬場である。ヨーロッパにはこういった競馬場がいくつもある。北駅から汽車に乗り、その町の一番汚い一番悲しい場所を通り、待避線を歩いて競馬場に行った。
ある日の午後、その競馬場でハドリーは1対120という大穴の、黄金の山羊(シェーヴル・ドール)という馬に賭けた。博才も度胸も彼女のほうがあるらしい。
シェーヴル・ドールは他馬を二十馬身も離して独走していた。このままいけば二人の半年分の生活費が手に入る。二人は立ち上がって馬の姿を追った。…しかし黄金の山羊は最後の障害で転倒してしまった。

彼等はオートゥーユ競馬場の草地にヘミングウェイのレインコートを敷き、二人坐って昼食を食べ、葡萄酒を壜から交互に飲み、古びた正面観覧席や木造の馬券売り場、トラックの緑の芝生や濃い緑のハードル、褐色に光って見える水壕や、白い漆喰塗りの石塀、緑の木々と芝地や集合所の馬たち、ハードルを跳ぶ馬たちを眺め、昼寝を楽しんだ。
レースを走り終わった馬たちが、びっしょりと汗で濡れ、鼻の穴を大きく開いて息をしながら馬道を帰るのを見送り、再び競馬新聞に目を落とし、次のレースの検討に入る。…日本の競馬場の情景とは異なる、のんびりと大らかな競馬観戦である。