騎手とオーナー

外国人騎手が短期免許を取得し、中央競馬で騎乗するようになって、十年余が過ぎた。多くの騎手が出稼ぎに来た。彼等はなぜ日本に稼ぎに来たのだろうか。おそらく日本の中央競馬は賞金額が高いというのが一番の理由だろう。第二に日本の競馬にはシーズンオフがないので冬でも乗れる。第三に日本の騎手は比較的温和しく紳士的で、外国人騎手のように強引で危険な騎乗をする人はあまりいない。そして第四に馬主や調教師やエージェントたちに、外人騎手は上手いという、彼等にとって実に嬉しくも都合の良い偏見がある。したがって優勝した際の特別ボーナスなども期待できるし、能力の高い良い馬に乗せてもらえる機会も多く、そうすると勝つ確率も高まる。確率が高まれば、また能力の高い馬の騎乗依頼が増える。
フランスのクリストフ・ルメール、イタリアのミルコ・デムーロが、JRAの新規騎手免許を取得し、一年を通じて騎乗が可能となった。彼等が日本を本拠にしたのも、それらが理由であろう。幸いなことに、彼等はとても上手いし人柄も良く、日本語の修練など努力家でもあり、また親日家でもある。

騎手の上手い下手とは何なのか。もちろんスポーツだから、当然騎手の身体能力や運動神経などの差はあるだろう。勝負度胸の差もあるだろう。それらの才能を磨く不断の鍛錬や自己管理、勉強等の差も多分にあるだろう。
でもそれだけではないだろう。おそらくデビュー時に所属する厩舎の力の差が大きいのではなかろうか。つまり最初の運の差が大きいのではなかろうか。最初の運が良ければ、その後は好転する。ある程度の騎乗機会と有力馬に恵まれ、順調に騎乗機会が増え、勝利度数も増え、実績ができると上手い騎手と評価され、また騎乗機会も増えて好循環していくのである。
ちなみに競馬学校を卒業した新人騎手は、どこかの厩舎に所属して育てられ、技倆を磨いていくのだが、近年の有力厩舎はこの新人騎手を所属させない。なぜなら近年の有力馬主は、実績のない新人騎手を騎乗させることを嫌い、実績があり、かつオーナーに対して従順な愛(う)い奴を乗せなければならない。今はオーナーにも調教師にも、新人騎手を育てようという気概はほとんどない。一昔前は、調教師は無論、オーナーたちにも新人騎手を育てようとしていた人がたくさんいた。
現在のJRAと競馬界は、社台・ノーザンファーム系の生産牧場やそのクラブ法人馬主や有力馬主の良血馬を、いかに預託してもらえるかが厩舎の明暗を分け、命運を握る。それらの良血馬、能力の高い馬は、オーナーにおぼえの良い特定の厩舎に集まり、それらのオーナーと調教師におぼえの良い特定のエージェント(グループ)が、オーナーにおぼえの良い特定の騎手に騎乗依頼を割り振る。それらの騎手は開催日の一日で複数回の勝利と複数回の二、三着の実績ができる確率が高まる。そうすると上手い、乗れる騎手と評価される。少々乱暴な乗り方をしても、勝てばオーナーは喜ぶのだ。

日本ピロブロックという会社の創業者兄弟・小林保、小林百太郎は無類の馬好きで、ニホンピロの冠名で知られる鷹揚な馬主でもあった。そして篤い人情家であった。
武田文吾厩舎からデビューした福永洋一に、先輩騎手の栗田勝も安田伊佐夫も、なるべく馬を回して彼を育てようとした。五年目で彼は有力なニホンピロムーテーに騎乗した。上手いと言ってもまだアンちゃん(若僧)だ、替えたほうがいいと言う人も多かった。だが服部正利調教師は乗せ続け、馬主の小林保も替えろと言わず乗せ続けた。菊花賞のときニホンピロムーテーは1番人気になった。ピロムーテーは後方一気の追い込み馬である。レースはスローで展開した。ムーティエ産駒のほとんどは気性に難がある。ニホンピロムーテーも難しい馬だった。ピロムーテーは中団を進み、2コーナーを回ると引っ掛かった。そして先頭に立った。スタンドはどよめいた。やはり洋一は若い、これでピロムーテーはない…。3コーナーから4コーナーに向かう淀の坂は、ゆっくりとゆっくりと下らなければならない、というのがセオリーだった。しかしピロムーテーと洋一はこの下り坂で加速したのだ。彼はレース前から考えていたという。「引っ掛かったら無理に抑えないで先に行く」…ニホンピロムーテーは鮮やかに勝った。そして洋一は天才と呼ばれるようになった。
保の弟・百太郎は1984年、ニホンピロウイナーでマイルチャンピオンシップを勝って以来、所有馬にGⅠ勝ちがない。「ニホンピロ」の馬は大牧場より中小零細牧場の生産馬が多い。近年はあまり活躍馬もないせいか、馬数も減った印象がある。

酒井学騎手は1998年、栗東の二分久男厩舎からデビューした。二分久男師は稀にみる相馬眼の持ち主と言われた。流行の血統やリーディングサイヤー上位の一流種牡馬の産駒には見向きもせず、地道に中小零細牧場の馬を見て歩き、これはというものを入厩させた。その中からノースガスト(菊花賞)、シンウインド(スワンスS)、マチカネフクキタル(菊花賞)、テイエムオオアラシ(カブトヤマ記念、福島記念)、シンカイウン(朝日チャレンジC)、ツルマルツヨシ(朝日チャレンジC)等を育て、調教師として675勝を挙げ、2001年2月に定年で引退した。
酒井学騎手は二分師の下で、デビュー年に335鞍に騎乗し、25勝を挙げた。順調だったと言ってよい。翌年269鞍13勝、2000年に258鞍乗って14勝。2001年、二分師の引退にともなってフリー騎手となり、221鞍乗ったが一桁台の7勝に留まった。あまり良い馬に騎乗できなかったのである。その後の騎乗数は激減し、5勝、3勝と低迷。2005年はわずか83鞍の騎乗しかなく、3勝。
2006年は11月まで未勝利のままであった。あまりの生活苦から所有のCDを中古ショップに売り、安アパートも捜した。彼は年明けに引退を考えていた。どこかの厩舎あるいは民間のトレーニングセンターの調教助手の口を捜すか、全く競馬から離れた仕事も探さなければと思っていた。
12月に、服部利之調教師から声がかかり、小林百太郎オーナーの未勝利馬ニホンピロコナユキに騎乗した。騎乗2戦目にこの年の初勝利で、唯一の勝利を挙げた。
酒井は「最後に良い思い出ができました…」と、面識もない小林オーナーに礼状を書いた。小林オーナーは酒井に連絡を入れ、食事に誘った。
「わしは、この歳になっても馬主を続けている。このごろは馬にも恵まれないが、それでも諦めずに大きなレースを獲ろうと、馬主を続けていくつもりだ。それなのに君は、その歳(26歳)で、もう諦めるつもりか。…一緒に、大きなところを獲ろう、な」
翌年から、小林百太郎オーナーは酒井に騎乗を回しはじめた。その年、酒井は138鞍に乗り、8勝を挙げた。08年11勝。徐々に他からも騎乗機会が回ってきた。09年夏に通算100勝となり、サンダルフォンで重賞・北九州記念を勝った。その年は254鞍の騎乗で12勝。…小林オーナーの周囲では「騎手を替えたら」と勧める者もあったらしいが、「ずっと乗せたったれ」と小林は言った。
10年夏、ニホンピロレガーロで小倉記念を勝って、その年25勝、11年は604鞍に騎乗し36勝を挙げた。
そして2012年12月、大橋勇樹厩舎のニホンピロアワーズで、GⅠジャパンダートをレースレコードで勝った。ゴール板を過ぎたとき、酒井は雄叫びを挙げた。人馬共にGⅠ初制覇だった。オーナーにとっても、ニホンビロウイナー以来のGⅠ優勝である。
酒井は握手を求めてきた小林百太郎オーナーの手を両手で包むように握り、深々と頭を下げて泣いた。…騎手を続けてきて良かったです。続けられたのはオーナーのお陰です…。
「ただ嬉しいの一言です。…関係者やスタッフの皆さんが精一杯やってくれて、バトンを渡された僕は、しっかり力を発揮するだけだったし、(馬が)強い姿を見せてくれて良かったです。…僕が怪我をしている時に乗った幸(英明)先輩も毎回メールをくれたし、小林オーナーや大橋先生をはじめ、関係者が僕みたいなジョッキーに任せてくださったので、それに応えるだけが仕事だと思っていました」
もう一人、激しく小林オーナーに拍手をしながら、喜びに震えていた男がいた。ニホンピロアワーズの生産者・片岡牧場の片岡正雄である。繁殖牝馬がわずか三頭の、夫人と二人で営む零細牧場である。この日は早朝からの仕事を終え、日帰りの予定で新ひだか町から阪神競馬場に応援に来た。アワーズの母はニホンピロルピナスで、小林オーナーからの預託馬であった。
アワーズが一歳の年、片岡正雄は病気で入院し、その後もリハビリ療養生活を送った。その間、馬は友人の友田牧場に預かってもらった。
アワーズのGⅠ制覇は「ラッキー以外のなにものでもない。小林オーナーには三十年近くお付き合いをさせていただいて、お世話になってきましたが、やっとご恩返しができました! 心底良かった! 感謝、感謝です! 病気の時、馬を預かってくれた友田さんにも感謝です!」

2014年10月、酒井学はトーホウジャッカルで、クラシック菊花賞を制覇した。